Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.1.22

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その5

白柳秀湖 (1884-1950)

千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十二章 水野忠成インフレーションの巻

一一七
 阿片の中毒と同じインフレ
  中毒に膏肓を犯された士民

 奥州へ左遷せられてからの田沼家の貧乏といふものは実に惨憺たるものであつた。何がさて遠州相良で五万七千石の身上から、俄に一万石の身上に転落したのであるから、財政難の甚だしかつたことは察するに余りある。しかもその上に重なる不幸で、不時の入用がかさみ、十年間はほとんど売りぐひの境涯であつた。

 ところが文政二年になると、前回に述べた水野忠徳の後身である玄蕃頭意正が俄に出世をし出した。大番頭から若年寄へ、若年寄から側用人へめき\/と出世をし出した。これはいふまでもなく、一面に於いて水野忠成の取立であつた。水野家に於いても田沼家の転落により何等落度のない忠徳を離縁したことは、相当寝ざめのわるいことであつたに相違なく、一般が田沼のインフレ政策に眷恋(けんれん)の情を抱くやうになつて来て見ると、忠成も自分の妻の先夫である意正の微禄をそのまゝにして置くことが出来なかつたものであらう。

 しかし、それよりもわれ\/の考へねばならぬことは、インフレ景気というものに対する世間の中毒症状だ。もう度々の苦い経験でインフレによつて煽揚される景気のよくないもの であるといふことは、よく分つて居た。しかるに、一般国民がもうデフレによる一時の苦痛を忍んで、正常に恢復して来る景気を待つには、あまりに疲れきつて居た。インフレの中毒は正しくその膏肓に入つて居た。彼等は水野出羽守に田沼主殿頭の影をとらへたばかりではない。田沼主殿頭の子、玄蕃頭意正を側用人に取立て、遠州相良の旧領に復して、地下の主殿頭に謝罪の意を表さずには居られなかつたほど、心身ともに迷妄状態に陥つて居たのである。

 出羽守忠成、老中の職にある事前後十七年、その間に権柄を以て取計らつた諸大名家の資格に関する事項を挙げて見ると、まず越前家の二万石増封、当将軍家の公子を越後津山侯の養子として取計らひ、五万右を増封したこと、同じく公子を因幡家及び館林家の養子として取計らつたこと、加州家のために、在国のまゝ隠居並びに家督のことを取計らつたこと、富山家の侍従任官、大聖寺家の十万石格、肥前家の長刀、熊本家の先箱(さきばこ)、藤堂家及び丹羽家の虎の皮の鞍覆(くらおほひ)、会津家の金紋先箱、姫路酒井家の溜詰、松前家の旧領移封など一々枚挙の煩にたへないほどである。中には重荷に小づけて、全く将軍家の思召に出で、若しくは公議によつて決したこともないではなかつたが、何がさて出羽守の権勢赫々たりし時のことで、これを引きくるめてその斡旋によるものとされたことは、大した不公平とはいへまい。

 なほそのインフレの一策として市内に富興行をゆるし、伊勢町河岸に米相場の会所をたてさせたことは、その放濫をきはめた貨幣政策と相俟つて、さらぬだに浮薄な人心を、一層浮薄にした観があつた。『寛天見聞記』に次のやうな記述がある。

 これはいふまでもなく、当時幕府が米価の下落に悩んでゐた為で、これによつて少しでも米価を釣り上げやうとしたものに違ひない。文化年間に於ける米価は、実に宝暦以来の安値で、諸大名、諸士の階級は例によりひどく困つてゐた。この時伊勢町に出来た米会所は、町方用達、杉本茂十郎といふものが、主としてその設立に任じたものであつた。


『維新革命前夜物語(抄)』目次/その4/その6

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