白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 より
◇禁転載◇
一一八 硝子で飛泉を造り炭火で 桜花を咲かせた忠成の豪奢 |
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『寛天見聞記』は水野出羽守のインフレ政策によつて、俄にその場数を増した富興行のことについて、次の如く記述して居る。
また谷中感応寺、日黒不動、湯島天神にて富興行あり。追々に諸社、諸堂にて興行はじまり一月に二十四五回程有(り)て最初は富の出番とて売(り)あるきしが、是を停止(ちやうじ)せられて後はおはなし\/と云(つ)て一の富の番のみ書(き)付(け)て売(り)あるく事、市中竪横数十人に及べり。是(れ)は富の札を買(ひ)たる者の為にあらず、第附(だいつけ)とて、一の富を当物(あてもの)として、一銭二銭を賭けにす。一文を八文にして取る割合にて大欲の輩は大金を
賭(け)にするも有り。強欲のなす所、浅ましといふべし。
場所の大略は谷中、目黒、湯島、浅草八幡、同観音、同三社、同念仏堂、同大神宮、同焔魔堂、同団子天王、同第六天、本所回向院、深川霊巌寺、新川大神宮、芝神明、愛宕山、西久保八幡、麻布東福寺、本銀町白旗稲荷、杉森稲荷、下谷六阿弥陀、白山権現、護国寺、根津権現、平川天神、茅場町薬師、品川天王、同庚申堂、是等を場所とす。
月並二三会の所も有(り)、四季に行ふも有(り)、札の代ぎん、当り金の次第不同(おなじからず)、五十両より千両迄、色々仕方有(り)、会毎に寺社御奉行所より、検使来りて立(ち)あふ事也。此検使の奴僕、地中、川前抔へ筵を敷て、富見物の者共と、博奕する事、幾席となく、見徳売(みどくうり)、札売、お咄売、札買の見物、第附したる者の見物、群集する事おびたゞし。此のさかりの時は、文政の末、天保の初なり。愚痴の輩、一時に大金を得て、奢を極(め)ん事を望むといへども、士農工商、己が業を勤め功を積(み)てこそ、家をも富(ま)すベきに、何ぞ其業を懈怠(げたい)して、天禄を得る事あらん。大学にも貨(たから)悖(さかつ)て入る時は、又悖つて出(いづ)るとあり。悖(さかる)とは俗に云ふさかさま事にて、無理をいふ也。無理に貨を得る時は、又無理に貨を失ふといふの戒(め)なるべし。
なおこの外にも、水野出羽守が三都ブルヂヨアどもの請託を容れて施したと思はれる政策で、徒らに財政を紊乱し、奢靡の風を煽揚した失措(しつそ)は頗る多かつた。例へば長崎に於ける支那、オランダとの貿易に関し、寛政中に定められた制規を改め、輸入船舶の数と輪出銅の数とを増し、同じく朝鮮、琉球との互市(ごし)に関しても、輪出銅の数を増した如きその最も甚だしきものであつた。
忠成、本所中之郷下邸(しもやしき)に自慢の庭園をしつらへ、これに将軍の台臨を乞はうとするけれども、元禄の柳沢一件以後は、将軍家が老中の邸に御成りなるといふことが止み、全くその前例のないのに苦み、附近なる小梅に水戸家の下邸のあるを幸ひ、先づ将軍がこれに御成りになることのあるやうに仕向け、そのかへり途に、通りぬけといふ名目で、台駕をその中之郷なる下邸に迎へた。
人も知る如く本所中之郷は隅田川のほとりで、土地に高低がない。忠成金にあかせてこれに林泉をかまへ、花木亭館の結構をつくしたけれども、築山に飛泉を設けることが出来ない。そこで硝子の線、数万条をつくりてこれを懸崖にかけ、あたかも飛泉を望むが如くにしつらへて、将軍の目を驚かさうとした。また台駕を迎える時に天尚ほ寒く、俄に移し植ゑた桜の花がまだほころびかねたのを、前日紙帳でくるみ、さかんに炭火をおこして無理に咲かせた。しかし将軍も流石に馬鹿でなかつたか、さほど感心された様子もなかつた。
忠成が病死した時、将軍(家斉)がこれをきいて『出羽守はよい時に死んだ。もし、今少し長生してその職に居たならば、本人はいかに堅固であらうとも、傍(はた)から贔屓の引倒しにされたかも知れぬ』といはれたということである。恐らく田沼の末路を諷されたものであらう。これらの点から推して考へると、初め、松平越中守を用ひてデフレ政策に精進させた家斉が、俄に越中守をやめて、水野出羽守を用ひなければならなかつた裏面の事情も略(ほゞ)、推察することが出来る。