白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 より
◇禁転載◇
一一九 行程四五日旅費懐中に重く 米の顔は一度も拝めぬ津軽 |
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安永、天明のインフレで、既にあれほどの大飢饉を惹き起して置きながら、幕府はなほ懲りず、更に文政、天保のインフレをやつた。どうして大飢饉が起らずに居られよう。インフレ政治家から見れば飢麓は天災であつて、インフレとは何の関係もないことのやうに思はれて居たであらう。しかし、宝暦以降、一般国民の凶作に対する抵抗力は、極端に薄弱なものになつて居た。中央で宿老がビードロの滝を作り、炭火をおこして桜の花を促し、ブルヂヨア達が、一碗の茶潰、一皿のかくやに一両二分の価を惜しまなかつた時、地方には天明と同じ大飢饉の悲惨が、レールの上を走る汽車と同じやうに進行して居た。
天保二三年の頃から気候がとかく順をうしなひ、五穀のみのりがよろしくなかつたところへ、天保四年、夏の半頃から、霖雨が続いて気温が低く、少しも夏らしい陽気がやつて来ぬ。六月の末には諸川が溢れて民家を浸し、田畑を損することが夥(おびただ)しかつた。かてて加へて八月一日は、近来稀なる大暴風雨で、人家の倒潰、田畑の損害甚しく、人畜の害を被るものも少くなかつた。
再び飢饉は来た。しかも、その最も甚だしかつたのは例によつて東北地方であつた。『徳川太平記』に次の記述がある。
或(る)撃剣師の漫遊して松前に渡りしもの、九月朔日に松前を発して帰途に就き、三馬屋(みうまや)に渡りて旅店に投ぜしに、翌朝宿銭を問ふに四百五十文なりといふに、先づ驚き、それより外が浜辺をたどりゆくに、稲穂は皆直立ちして実りしもの一本もなし。此日足痛めければ僅に五六里行(き)て宿をからんとするに、米なしとて貸さず。因(り)て蕨(わらび)の粉など買求めて強て一夜のやどりを乞ひ、又、次のやどりには、いぶせき民家に入(り)て、昆布、じんば艸(さう)、ゑごなどいへる海草を、稈(稗?)(ひえ)、麦に交へて炊き、又は粥、雑炊にしたるを食となし、或はねごといへる莚の如きものを蒲団の代りとしたり。
又、ある日には漁人のもとに行(き)て、鰹十五六尾買求め重荷のはしに結(ヘ)つけ、朝暮これを食となして行(き)、四五日の間は米といへるもの、目にだに見ざりき。此辺の村里にては、皆猫を殺して食へり、犬は未だ死にもやらず、よろぼひながら行くを見たり。
村民は乞丐(きつかい)となりて、他国へ散ずるもの、幾千人といふことを知らず、或は餓死せし人をあだといふものに載(せ)て、村送りにするもあり、半死半生にて路傍にやみ臥すも数多し。道行く流人を見るに、大根をかみ青菜に塩を和して食ふもあり、はや四五日ももの食はぬとて、袖にすがリ、行厨(べんたう)を奪はれしこともしば\/なり。依て常に便りよき処にては米を求め団飯(にぎりめし)に作らしめて携(ヘ)行(き)しなり。
夫婦して四歳の児と当歳の嬰児(あかご)とをつれ、非人となりて家を出しに、食を得る便りなきままに、妻は二児を抱きて川に沈みしかば、夫も同じく川に飛入(り)て、死せしものあり。かかるたぐひも、かず\/聞及びぬ。
年比(としごろ)飼置ける馬あり、殺して食ふに忍びずとて、人に与へて去り、又、袷(あはせ)一つを米一升にかふるものあるなど、いたはしきことの限りなり。津軽の境碇が鼻にては、小屋を設け他国より追返さるるものに、粥を煮て食はしめ、且つその小屋にやどらしむるは恵政なり。
秋田に出(づ)れば、作毛少しく宜しけれど、かてめし、粥など喰ふことは、津軽に同じ。庄内は人心やゝ穏かなり。最上は秋田に比すべし。伊達郡に出でて先づ半収を得べしと見えたり。十月の半ばに野州、寺子村知己(しるべ)の方に、両三宿し、其語る所、かくの如しとなリ。