Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.2.1

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その8

白柳秀湖 (1884-1950)

千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十三章 天保の大飢饉、都市ブルヂヨア豪華の巻

一二〇
 軒下に茨を植ゑて
  棄児や行倒れを防いだ南部盛岡

『徳川太平記』はなほ南部盛岡地方の惨状を次の如く記述して居る。

 以上、記するところは天保四年の東北地方における飢饉の惨状であるが、それから中二年を距てた天保七年にはさらに大きい飢饉がやつて来た。まず天保七年の夏の頃から、陰陽全く順を失ひ六七月に及ぶといへども、陰雲低く垂れこめて、陽光を仰ぐこと稀に、人々皆冬衣をとり出して肌につけ、一人として扇を手にするものがない。六月二十一二日頃には、処々に天から白い毛が降つて来た。その長さは一様でないけれども、長きものは二尺に余るものさへあり、大体に馬の毛のやうであつた。人々驚きおそるゝこと限りなく、いかなる天災の到るべきかと語り合うところに、果して五穀みのならず、全国一般の大飢饉となつて、その惨状は、天明の大飢饉にまさるとも、劣らざるものがあつた。

 例によつて、最も甚だしい災害を被つたのは奥羽地方であつた。

 岩城辺では、草の根、木の芽はいふに及ばず、鶏、犬、猫、牛馬など、凡(おほよ)そ生きとし生けるものは尽く打殺してくらひつくし、夜に入ればくらきにまぎれ出でて、麦の芽のかひわれしたるをとりて食ふ。桃生、牡鹿の両郡は、餓死せしものことに夥(おびたゞ)しく、その数、幾千人にも及んだとのことである。

 餓を訴へて泣き叫ぶ声は、春より秋に至りてやまず、後にはその声さえもやみ、村落は(げきせき)として全く人語を絶つに至つた。かくて餓死したものゝ屍体は、野犬どもの貪り喰ふに任せ、腐敗糜爛(びらん)した骨肉が籬落(りらく)路次に散乱して、実に眼もあてられぬありさまであつたとある。

 米の価は仙台で、四斗二三升入り一俵四両の高価を呼び、小売白米は四升の価一分、大豆は九升の値一分とあつた。一般物価の貴さも推して知るべきである。

 小宮山綏介(やすすけ)の保存して居た大槻磐渓の手簡によると、この頃奥の芭蕉の辻辺で、六七歳ぐらゐから十四五歳位までの童女達、三々五々打群れてさまよひあるき、夜に入れば寒しと泣き、ひもじと叫びて訴ふる声、あたりに響きて、哀切まことにきくにたへず、これはその父母が、他領に出奔(しゆつぽん)する時に路傍に棄て去つたものであるとのことである。老人、病者は皆淵川に身を投げて死んだものらしくどこの村にも、その影を見せなかつたとある。又、同じ手簡の中に次の如き注目すべき記述があつたと小宮山綏介はいつて居る。


『維新革命前夜物語(抄)』目次/その7/その9

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