白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 より
◇禁転載◇
一二〇 軒下に茨を植ゑて 棄児や行倒れを防いだ南部盛岡 |
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『徳川太平記』はなほ南部盛岡地方の惨状を次の如く記述して居る。
又、南部盛岡に至りしものゝ話に、両三年打続ける不熟に、本年は殊更大凶作にて、常年に十俵を収むるもの僅に半俵を得るに過ぎず、故に一家挙(こぞ)りて逃散するものに逢ふこと、一日百人に下らず、はたごは一宿四百文にて、菜はあんぽんたんといふ塩魚に、汁には山あざみの茎葉を用ふ。城下又は山中など、処々ヘ小屋をかけ、一日一人に一合ほどの粥を与ふ。近比(ちかごろ)はそれも届きかね、小屋内に死するもの、あまたあり。已に二千人も死したるよし。大坑(あな)を掘(り)置(き)、屍はその内へ打込となり。
夜間、道路へ菰(こも)をしきて臥すものあり。人家の軒下ヘ、小児を捨(て)、又は飢人の倒れ死するものある故、士家商家とも茨をもて軒下を塞ぎ置(く)こと、毎家みな然りとなり。
以上、記するところは天保四年の東北地方における飢饉の惨状であるが、それから中二年を距てた天保七年にはさらに大きい飢饉がやつて来た。まず天保七年の夏の頃から、陰陽全く順を失ひ六七月に及ぶといへども、陰雲低く垂れこめて、陽光を仰ぐこと稀に、人々皆冬衣をとり出して肌につけ、一人として扇を手にするものがない。六月二十一二日頃には、処々に天から白い毛が降つて来た。その長さは一様でないけれども、長きものは二尺に余るものさへあり、大体に馬の毛のやうであつた。人々驚きおそるゝこと限りなく、いかなる天災の到るべきかと語り合うところに、果して五穀みのならず、全国一般の大飢饉となつて、その惨状は、天明の大飢饉にまさるとも、劣らざるものがあつた。
例によつて、最も甚だしい災害を被つたのは奥羽地方であつた。
岩城辺では、草の根、木の芽はいふに及ばず、鶏、犬、猫、牛馬など、凡(おほよ)そ生きとし生けるものは尽く打殺してくらひつくし、夜に入ればくらきにまぎれ出でて、麦の芽のかひわれしたるをとりて食ふ。桃生、牡鹿の両郡は、餓死せしものことに夥(おびたゞ)しく、その数、幾千人にも及んだとのことである。
餓を訴へて泣き叫ぶ声は、春より秋に至りてやまず、後にはその声さえもやみ、村落は寂(げきせき)として全く人語を絶つに至つた。かくて餓死したものゝ屍体は、野犬どもの貪り喰ふに任せ、腐敗糜爛(びらん)した骨肉が籬落(りらく)路次に散乱して、実に眼もあてられぬありさまであつたとある。
米の価は仙台で、四斗二三升入り一俵四両の高価を呼び、小売白米は四升の価一分、大豆は九升の値一分とあつた。一般物価の貴さも推して知るべきである。
小宮山綏介(やすすけ)の保存して居た大槻磐渓の手簡によると、この頃奥の芭蕉の辻辺で、六七歳ぐらゐから十四五歳位までの童女達、三々五々打群れてさまよひあるき、夜に入れば寒しと泣き、ひもじと叫びて訴ふる声、あたりに響きて、哀切まことにきくにたへず、これはその父母が、他領に出奔(しゆつぽん)する時に路傍に棄て去つたものであるとのことである。老人、病者は皆淵川に身を投げて死んだものらしくどこの村にも、その影を見せなかつたとある。又、同じ手簡の中に次の如き注目すべき記述があつたと小宮山綏介はいつて居る。
加美郡より、江刺郡へ赴く途中にて、父母は已に死し、妻も死し、十二三の女子(むすめご)と両人にて有壁沢まで行くに、女子も亦死せしに、自ら鉈(なた)を以て枯木を切り、××××××××××又あとより飢民の来るありて、両人して当月(七年十二月)三日より六日までに×××××、両人とも斃死し××××、×××××置けるよし、親しく見しものゝ談なり。古史に『子を易(か)へて食ふ』といふことあり。誠しからぬことと思ひしに、只今右の如くなることあり、是にて国元大飢饉のありさま察せらるべしとなり。
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