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天保七年八月には、甲斐国都留郡に由々しい百姓一揆が起つた。こゝは代
官・西村貞太郎の支配地で、事は下和田村の百姓・武七といふものゝ発頭か
ら起つた。当時武七は六十歳ばかりの老人で、すでに森右衛門と改名して居
たが、自ら一揆の張本となつて、赤い陣羽織の如きものを著なし、赤白の旗
に『森』の一字を大書したもの二・三十本を押立て、徒党の者は手に斧・鋸・
鳶口・竹槍等を携へ、その他の武器・兵糧等を四・五匹の馬に負はせて、十
七日の暁から同郡谷村へ押出し、行く行くいきほひを加へて総勢幾万といふ
数を知らず、八・九里の間、蜿蜒長蛇の陣をなし、途々乱暴狼藉を働きなが
ら、二十三日巳の刻といふに甲府町に到著した。この間、谷村では同村の豪
家を五軒まで打毀し、鶴瀬の吉野屋・勝沼の鍵屋・寄田の巴屋にせまつて兵
糧の焚き出しをさせ、鶴瀬の関を破つて熊野堂村に押出し、こゝで奥右衛門
の家蔵十二戸を打毀し、その勢ひに乗じて、つなみのやうに甲府町に押寄せ
たのであつた。
一揆が甲府に乱入した時には、その数一万八・九千人といはれて居た。緑
町なる竹原屋といふ質屋を始めとして、呉服・太物・米穀商の家々十五・六
戸を打毀して略奪をほしいまゝにし、中には火を放つて焼き払つたものさへ
あつた。
しかもその火が白洲に燃え移つて、官衙三十戸にも延焼したので、官に於
いても今は黙止し難く、城内ら一揆の群る真只中に、一斉射撃を浴びせかけ
た。一揆は三百人ばかりの死傷者を遺棄して鬨の声を揚げ、巨摩郡の方へ退
散を始めた。
甲府町を引揚げた一揆は、鉦・太鼓を打鳴らして、所在の村々町々を襲ひ、
北山筋・中郡辺を荒し廻つて、人数はいよ/\加はるばかりであつたが、代
官・西村貞太郎・山口鉄太郎、井上重左衛門などが、手附・手代を繰出して
追捕に従ひ、諏訪伊勢守からも、人数が出て、やつと鎮撫の功を奏すること
が出来た。この騒動で縛に就いたものが百七十余人、その余はちり/\ばら
/\となつて、行方しれずになつてしまつたとあるが、これは深く詮議立を
することが出来なかつたものに相違ない。
又、即死・負傷者はいづくのものとも知れ難しといふ名目で、どし/\仮
埋葬に附してしまつた。これも深く詮議立てして居れば、それからそれへと
犯人が出て、村々が全滅に及ぶので、どし/\埋めてしまつたものであらう。
又、一揆の携帯してゐた凶器の類で、差押へたものは、刀脇差六十四振・鉄
ねうばち
砲一挺・斧五挺・甲二つ・太鼓一つ・鐃鉢三つ・十手の類十と報告せられた。
一揆の起つた原因とも見るべきものは、都留郡といふところは、元来水田
が少く、八代・山梨・巨摩の三郡及び、武蔵国八王子辺から甲州上之宿へ移
入される米穀によつて、給養の途を立てゝ来た。しかるに、今年は凶作にて、
収獲が殆ど皆無であつたから、さらぬだに困つてゐた都留郡八十余箇村の百
姓はいやが上にも難渋した。しかるに、在々所々の土豪ども、一般の困窮を
顧慮すればこそ、飢饉の声をきくと、直に右の米を買占めて貯蔵し、倉庫の
戸を固くとざして自衛の途を講じたのであつた。
事件はそこから爆発した。
甲斐勤番支配・永見伊予守以下、責任者の処罰せられたことはもちろんで
あつたが、一揆側でも頭目四人は磔、九人は死罪、その他遠流三十八人・重
追放八人・入墨中追放一人・中追放五人・江戸十里四方追放一人・所払二十
三人・入墨重敲二人・入墨敲三十九人・敲三十人・手錠六十四人・過料百二
十九人・その他村々の名主・主なる百姓・組頭に至るまでそれ/゛\罪の軽
重に従つて申渡しがあつた。
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徳富猪一郎
『近世日本国民史
27 文政天保時代』
その23
蜿蜒
(えんえん)
蛇や竜などが
うねうね曲が
りながら進む
さま
鐃鉢
日本の寺院で
使われる鳴物
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