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この大騒動があつた翌年の二月十九日には、大坂に町奉行組の元与力・大
塩平八郎の挙兵があつて、その変報が日本国中を震撼させた。
大塩平八郎名は後素、字は子起、号を中斎と呼び、その居を洗心洞と号し
た。もと大坂町奉行の与力であつたが、宋儒性理の学に傾倒し、特に陸・王
の説を執つてその名声遥に官の地位を凌ぐものがあつた。資性剛直敏活にし
て吏務に長じたが、その執行厳刻に過ぎた。幾もなく官を辞し、天保七年の
飢饉に際し、飢民の窮迫を見るに忍びず、先づその蔵書を売つて賑恤の資と
した。ついで町奉行・跡部良弼に上書し、官穀を出して救済されんことを請
うたが聴かれず、憤激して同志を結束し、檄文を草して摂津・河内・和泉・
播磨の諸国に移し、二月十九日、救民を名として兵を天満橋筋長柄町なる町
与力同心の役宅街に挙げ。火を縦ち、砲を発して天神橋筋に出で、京橋口な
る土井大炊頭利位の役宅を攻撃する目的で、行く/\町家を却掠し、浮浪の
徒を嘯集して、難波橋を渡り、迂廻して今橋・平野橋から淡路町に出で、こゝ
で町奉行・跡部山城守の一隊と衝突した。瀬田済之助・小泉淵五郎・吉見九
郎右衛門・近藤梶五郎・河合郷左衛門・渡辺民左衛門・庄司儀左衛門等がそ
の与党の主なるものであつた。これより先、同志の一人・平山助次郎なるも
のが変心し、二月十七日の夜、事を町奉行・跡部良弼に密告して出たので、
城代・土井大炊頭・町奉行跡部良弼は遽に兵を発し、橋板を撤して防戦の準
備を整へたが、久しき泰平になれ、十九日の朝、砲声の起るに及び人馬萎縮
して前まず、跡部山城守の隊長・堀伊賀守は味方の砲声に驚いて棹立となつ
た馬から落ちて、這々御祓筋の会所に引揚げるといふ醜態を演じた。しかし
大塩方とてもとより烏合の衆、城代・町奉行が敵勢の案外に弱小なるを確め
得て、その大袈裟な陣容を建直した時には、暴徒はすでに散じつくして影も
形も止めず、火勢のみがひとり炎炎として、淀川南北の街衢に漲るのみであ
つた。
この日、平八郎父子は事の成らざるを知ると、潜かに八軒屋から舟に乗じ
て遁れ、火災避難者の態を装ひつゝ天満橋の辺を上下して日を暮し、夜陰に
及ぶをまちて東横堀の新築地から上陸、混雑に紛れて一旦大和路に竄入し、
河内路に取つてかへし、二十四日の夜、大坂紀伊国橋のほとりなる油掛町美
吉屋五郎兵衛方に到著、五郎兵衛夫妻を脅かして三月二十六日の夜まで潜伏
した。
しかるに大塩平八郎父子が大坂油掛町の美吉屋方に潜伏して居ることは、
端なくも同家の下女の口から漏れ、城代・土井大炊頭の知るところとなつた
ので、直に手が廻り、三月二十七日払暁、美吉屋方は水も漏らさぬ警戒裡に
捕吏は進んで平八郎父子が大坂油掛町の居室に闖入したが、平八郎父子はそ
れと知つて火を縦ち、平八郎先づその子・格之助を介錯し、自らも火焔の裡
に自尽した。幕府は平八郎の罪を断ずるに大辟を以てし、その死体を塩詰に
した上磔刑に処した。子・格之助等首魁十七名も同罪に行はれ、隠匿者・五
郎兵衛以下徒党の面々それ/゛\罪が決して、一件尽く落著したのは同じ年
の八月二十一日であつた。
大塩平八郎の挙兵についてわれ/\の明かに見取ることの出来るのは、か
うした変乱が著しく社会性を帯びて来て居ることである。もちろん、何時の
世の変乱でもよくしらべて見れば、社会的の理由は潜伏して居るのであるが、
当事者その人の意識にはそういふことは上つて居ない。しかるに大塩平八郎
あたりの挙兵となると、その檄文に堂々と、社会的の理由を明示して居る。
一方で細民が食に窮して、行き斃れに斃れ死んで行きつゝある時、他の一方
では蔵元・掛屋など呼ぶ特権大町人層が、飢饉故に不当の利益を占め、日夜
茶屋酒に浸つて、いはゆる膏梁の味にあき、贅沢の仕方に窮して居る。しか
るに官はこれに対して、何等救済の法をも講ずることが出来ないのみか、賄
賂を貪り、驕奢に耽り、領内の百姓に過分の用金を課することのみを能事と
して居る。かやうな世の中は何とかしなければならぬ。かれは明かに富豪を
呪つて居る。富豪を肥らせるばかりで、他に何等の旗も立てることの出来ぬ
政府官人の無能を呪つてゐる。
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洗心洞
大塩平八郎の主宰
する塾の名
徳富猪一郎
『近世日本国民史
27 文政天保時代』
その35
縦(はな)ち
吉見九郎右衛門
は子に密訴させ
た
河合郷左衛門
は乱の前に出奔
渡辺民左衛門
渡辺良左衛門
遽(にわか)に
堀伊賀守は
西町奉行
跡部山城守は
東町奉行
跡部も落馬した
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