Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『「近世日本国民史 27 文政天保時代』

その23

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    二三 甲州に放ける百姓一揆

一揆の首 領 谷村に押 寄す 甲府に入 る 凶徒散亡 一揆の原 因 関係者の 処分 傍近大名 亦出兵 江戸に於 ける幕府 の救済 囲米禁止 の触 他国取引 手広くす べき事 地方の窮 迫推知す べし

  天保六七年度の饑饉は、やがて甲州に於ける百姓一揆を惹起した。天保 七年八月、代官西村貞太郎支配甲斐国都留郡八十余村の百姓共、徒党し て蜂起し、処々打毀し、放火狼籍に及んだ。その大将には同郡下和田村 の農民武七、後に森右衛門と改む、六十歳計りの者、赤き陣羽織様のも のを著し、徒徒を下知し、赤白の布に森の一字を大書したる旗二三十本 を持たせ、おの\/斧鋸、鳶口、竹槍等を携へ、尚ほ右の品々、並に大 綱等を四頭の為に負せ、八月十七日の暁天より同郡谷村へ押寄せた。其 の人数八九里の間引続き、幾万なるを知らず。先づ手初として同村の豪 家五軒を打毀ち、それより鶴瀬宿吉野屋、勝沼宿鍵屋、寄田宿巴屋の三 家へ焚出を命じ、若し否まば打破らんと云ふにより、彼等は何れも拠な く焚出して兵粮の設けをした。 斯くて鶴瀬の関門を押通り、廿二日に、熊野堂村奥右衛門の宅、土蔵十 二戸前を打毀ち、二十三日巳刻甲府町へ押し寄せた時には、人数弥増し て一万八九千人に及んだ。緑町竹原屋なる質屋を始めとし、呉服太物、 穀物商の家々十五六戸を乱妨し、見世、店、居宅、土蔵等、さんざんに 打毀ち、或は火を放つて焼き払つた。而して其火白洲へ移りて三四戸に 延焼し、甲府城内から鉄砲を打ちかけたから、一揆の内死傷三百人許り を出した。 此に於て同勢退散して、巨摩郡の方に向ひ、鬨の声をあげ、鉦太鼓を打 鳴らし、処々の宿町打破りて、北山筋中郡辺を乱妨し、廿四日迄は、人 数増加するのみであつたが、代官西村貞太郎、山口鉄太郎、井上十左衛 門の手附、手代、足軽を出し。又た諏訪伊勢守よりも人数を出し、召捕 りしもの百七十余人に及んだ。其内には頭取並に頭取に差続くもの、又    おびや た全く劫かされて附随した者もあつた。而して其余の者は、何れも 散り\゛/になりて、行方知れずになつた。其の死傷何れも何処の者と も知れ難く、屍は仮理とした。一揆の携帯品刀、脇差六十四振、鉄砲一                ねうばち 挺、斧五挺、甲二つ、太鼓一つ、鐃釟三つ、十手の類十、何れも押収し た。 抑も此の一揆の起つた原因は、都留一都は、従来水田少きのみならず、 本年の凶災にて皆無となつた。従来八代、山梨、巨摩の三郡、及び武州 八王子辺より、甲斐上之宿へ附出せし米穀を、都留郡の者共買取りて、 食料となし来つたところ。当年は処々の豪家、之を買占め、囲ひ置きて、 一切売らぬこととなしたから、憤激の余、遂ひに爆発に及んだのだ。 さて 却説、天保十年五月七日に至り、甲斐勤番支配永見伊予守は逼塞、代官 小沢勘兵衛、山口鉄五郎、西村貞太郎、井上十左衛門は小普請入逼塞、 又は差軽。一揆の輩は、磔四人、死罪九人、流罪三十八人、重追放八人、 入墨中追放一人、中追放五人、江戸十里四方追放一人、所払二十三人、    たゝき 入墨重敲二人、入墨敲三十九人、敲三十人、手錠六十四人、過料百廿九 人、其余村々名主、百姓組頭等、何れもそれ\゛/譴責せられた。 〔徳川太平記〕 元来此の一揆は、全く政治的意味なく、単に百姓一揆に止つたが、然も 其勢甚だ盛んにして、代官共の手に余り、傍近の大名共の出兵にて、漸 く鎮定した。 尚ほ天保七年十月、幕府は左の命令を発した。   近年引続き、米価高直にて、共日献ど者ども、一統困窮に及び候処、   当夏以来追々米直段引上げ、必至と及難儀、家財衣類等迄売払候て   も給続兼、住所にも離、及飢渇候程之ものは、此度為御救、神田佐   久間町河岸え小屋補理置候間、右小屋入申附候。尤朝夕賄之儀は、   町会所より被下候間、昼之内は銘々出稼いたし、元手を稼溜、凡百   日程相立候はゞ、銘々店持候様可致。尤格別之御仁恵を以被仰付候   儀に付、小屋内に罷在候内、風儀宜相慎罷在候様申付、其外諸事町   会所掛り差図可致候間、其旨可存、且俄に任所に離、未行倒候程に   は無之、及飢難儀いたし候者有之候はゞ、召連可訴出候。   但窮民御救小屋え入候儀は、両番所、並町会所え駈込、困窮申立候   ても、元居町役人相糺、実々及飢渇候程之儀、相違無之候はゞ、押   切書付相渡し遣、小屋入申付。尤右書付は、小屋場詰、名主ども方   え預可置事。   右之通申渡候間、其旨相心得、組合限不洩様可申達候。 又た同月、左の如く達した。     町奉行え    一 近年米直段高直之処、此節甚だ高直に相成、町方一統及困窮、   此節下直に不相成候ては、取続兼候趣相聞候。右に付米問屋共荷主   より預置候商ひ米有之候者、荷主共え掛合、貯不置、仲買に不限、   米商売人は勿論、素人えも最寄次第、直に売渡候様申付、若米囲置   候もの有之ば、町中より可訴出候。吟味之上、其米取上、従公儀御   払可被仰付候。   一 米下直に相成候迄、米問屋共仕入米之外、上方筋、地廻り共、   入津之米穀は勿論、雑穀等迄、問屋仲買に不限、素人にても勝手次   第、直に引受売買いたし、他国取引手広く相成候様可致候。   一 米買に参候者、直段相対いたし、ねだりケ間敷儀申間敷候。若   又理不尽成仕方も候はゞ、米屋より可訴出候。   右之通町中え可被相触候。 以上によりて如何に将軍の膝元たる江戸の小民が、窮迫の情態であつた かゞ判知る。江戸且つ然り、況んや地方をや。観て此に至れば、甲州の 百姓一揆も決して偶然の事ではあるまい。

   
 


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