Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.12.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


「天保の大飢饉」その8
白柳秀湖

『民族日本歴史 近世編』千倉書房 新版 1944 所収

◇禁転載◇

第十二章 インフレ・政治の行詰りから封建的新体制計画まで
 第四 天保の大飢饉(8)
  <補註>天保大飢饉の惨状と地方人心の不隠
   (七)国学者・生田万の越後柏崎陣屋襲撃事件(1)
管理人註

 大塩平八郎の騒動で、人心が尖りきつて居るところへ、こんどは越後の柏    いくたよろづ 崎に、生田万といふ国学者の領主・松平越中守の陣屋襲撃事件が起つた。さ らぬだに大坂の一件でどこかにその一味徒党が潜伏して居て事を挙げるので はないかといふやうな予感で、全国民の神経がまるで針先のやうに尖りきつ て居るところへ、果して越後の柏崎に同じやうな騒動が起つた。それは天保 八年五月三十日の夜から六月一日の朝にかけてのことで、大塩平八郎の一件 からわづかに四箇月目であつた。  生田万はもと上州館林の城主・松平斉厚に仕へた生田信勝といふものゝ長 子で、享和元年の出生、幼名を雄といひ、長じて万と改めた。父信勝は、藩 の大扈従頭まで進み、百三十石の禄を食んで居たといふから、中途、館林家 に召抱へられた生田家の分限からいへば破格の出世であつた。万き幼少の時 から情にもろく、物事に激し易い性質で、詩歌文章の道には頗る堪能であつ た。初め家祖・正健の書きのこした『大中経』といふ稿本を読んで陽明学に 傾いたりしたこともあつたが、翆園大人・大江勝義に就いて和歌を学ぶに及 び、大に国学に興味を持ち、その師を介して加茂真淵・本居宣長の学に入り、 遂に平田篤胤の書に接するに及んで、尊王敬神の大義に化せられ、ひそかに 志を京都の朝廷に寄せ奉るやうになつた。  文政七年には万も二十四歳の春を迎へた。かねての志であつたものと見え、 父のゆるしを得て江戸に出で、平田篤胤の門に学んだ。文政十年には学成つ て一たび錦を故郷に飾つたが、江戸遊学以来、いやが上に昴つて来た矯激の 情は、遂にかれに禍して藩を逐はれることゝなり、それから転々流浪して越 後の柏崎に草鞋をぬいだのは、天保七年五月十四日のことであつた。それは かれが江戸に遊学中、平田篤胤の塾で、兄弟のやうに親しんだ。同地諏訪神 社の神職・樋口出羽に招請されたからであつた。この時かれは三十六歳の男 盛りであつた。  この行、かれは樋口出羽の家に滞在すること二・三十日にして、一旦その 浪居を構へてゐた野州の太田にかへつたが、九月には妻子を引きつれ、当分 は腰を落ちつけるつもりで柏崎に徒つた。いふまでもなく、前の滞在で、か れに私淑する多くの学徒を得たからであつた。かれは柏崎の山田小路といふ ところに家を借りその塾を桜園と号して、若いものに和歌国学を授けることゝ なつた。  しかし、この時はいはゆる天保の大飢饉が、その絶頂に達して居た。柏崎 地方でも飢ゑて路に倒れるものが日に\/その数を加え、惨状は実に目にも あてられぬ有様であつた。  この頃、江戸の高輪に仙波太郎兵衛といふ富豪があつて多くの牛を飼ひ、 府内の運送を一手に引きうけるやうないきほひで、大へんな身上であつた。 著者は明治の末、ちよつと、伊皿子に住んでゐたことがあつて、仙波の跡な どもよく知つてゐる。『仙波の牛』といへば、その頃まで古老がよく口にし たものである。その仙波が、手代五人に十万両といふ莫大もない金を持たせ て、越後米を買出しによこしたといふ噂がぱつと柏崎地方にひろがつた。果 して仙波が十万両の金で米の買占めをしたか、どうか、それはよく分らぬが、 さういふ噂がぱつとひろがつた。もとより火のないところに煙は揚らぬ道理 で、どこの倉庫にも一粒も残つて居ぬやうに見えた米が、金次第で幾らでも 出て来る。それにつけてはいふまでもなく、郡奉行あたりのわるい噂も伝は る。  それかあらぬか、柏崎地方の米価は、その頃から更に暴かに騰貴して、四 月下旬になると十両に六俵八分という前代未聞の高価を呼ぶやうになつた。  その頃から、柏崎の町々へ、『落し文』といふものが、どこからともなく 降り出した。今日のことばでいへば、『怪文書』といふやつである。大塩平 八郎の檄文は、『天より被下候』とあつたが天から降つて来たのでも何で もない。人間が持つて廻つたのである。越後柏崎のはそれが辻々に落ちて居 た。たしかに天からでも降つて来たかのやうに見える。  それから、この事件がいかにも皮肉にきこえたのは、柏崎地方八万三千石 が、寛政デフレの立役者である松平越中守定信の所領で、現にその子孫の支 配に属するものであつたといふことだ。それでその落し文には、『楽翁様』 といふ文字が二・三箇所に出てゐる。要するに楽翁様の時には、百姓の幸福 を第一として、万般の制度を御立てになつた。しかるに今の役人どもは少し も楽翁様の御趣旨を守らず、この非常の場合、豪農が米を他国に売らうが、 悪町人どもが米を他国に積出さうが見て見ぬ振りをしてゐる。この上は必死 の覚悟で制法を立てゝ戴かなくてはならぬ。




『維新革命前夜物語(抄)』
その13 

黒頭巾
「大塩平八郎と生田万(上)」 













































































徳富猪一郎
『近世日本国民史
文政天保時代』
その46

























暴(にわ)か


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