Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その35

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

第七草 大塩の講学
    三五 教育者としての大塩平八郎

大塩の勢 力 洗心洞学 名学則 所謂孔孟 学 一仁を求 むるに在 り 只孝に在 る而已 洗心洞入 学盟誓 聖学の意 を失ふべ からず 雑書を読 むべから ず 毎日の業 放逸を禁 ず 出入の戒 家事変故 公罪処置 平八郎人 物 妻離別の 理由

辞職しても大塩は、決して無為無事にて暮さなかつた。彼は此れより愈 よ道学先生の本能を発揮して、陽明派の学者として、関西に鬱然たる一 勢力を作した。 彼が学問に於ける進修の次第は、既記の通りだ。〔参照 二五 二六〕 而して其の洗心洞学名学則なるものに就て見れば、彼は学問上に於ける、 抱負の輪郭は、自から分明である。   弟子余に問うて曰く、先生の学之を陽明学と謂ふ乎、曰く否。之を   程子学朱子学と謂ふ乎、曰く否。之を毛鄭賈孔訓詁註疏学と謂ふ乎、   曰く否。仁斎父子の古学乎、抑も徂徠詩書礼楽を主とするの学乎、   曰く否。然らば則ち先生の適従する所ろ、将た何の学耶。曰く、我   が学は只だ仁を求むるに在る而已矣。故に学に名無し、強ひて之に   名く、孔孟学と曰ふ焉。曰く、其説如何。曰く、我学大学、中庸、   論語治むる也。大学、中庸、論語便ち是れ孔子の書也。孟子を治む   る也、孟子便ち是れ孟氏の書也。而して六経は皆な亦た孔子刪定の   書也。故に強ひて之を名けて孔孟学と曰ふ也。毛鄭賈孔の学、則ち   只だ経書の名義を註釈する也。程朱の学は、大抵経書の精微、性命   の底蘊を説破する也。陽明先生の学、其中に就て、易簡の要を提ぐ   る也。仁斎、狙徠は則ち特に其の唾余耳。鳴呼孔孟の学、一仁を求   むるに在り、而して仁は則ち遽かに手を下し難し。故に或は其の訓   詁註疏を読み、而して其の影響を求む。或は其の居敬窮理の工夫に   因りて、以て其の精微を探る。其の底蘊を窺ひ、或は良知を致し、   以て其の易簡の要を握る。而して畢竟各上皆な孔孟の学に帰する而   已矣。然り而も孔孟数千百歳以前、既に逆じめ数千百歳の後、諸儒   各意見を争ひ、宗を立、派を分ち、以て同室の闘を為すを知る矣。   故に孔子孝経を以て骨子に授け、而して之を至徳要道と謂ふ。孟子   亦た曰く、尭舜の道孝弟而已矣と。是を以て之を考れば、則ち四書、   六経の説く所は、多端と雖も、仁の功用遠大と雖も、其の徳の至、   其道の要、只だ孝に在る而已矣。故に我学孝の一字を以て、四書、   六経の理義を貫く。力固より及ばず、識固より足らず。然も諸れを   心に求、而して真に心中の理を窮む、将さに死を以て斯文に従事せ   んとす矣。故に直ちに孔孟学と曰ふ。是れ乃ち僭に似て而して僭な   らず矣。吾が徒小子、宜しく奉遵すべし焉。而して若し我が学を問   ふ者あらば、則ち之を以て答へて可。 此れが彼の学問の大綱だ。而して其の洗心洞入学盟誓は、則ち左の通り であつた。   聖賢の道を学び、以て人と為らんと欲せば、即ち師弟の名、正さゞ   る可らざる也。師弟の名正さゞれば、則ち不善醜行有りと雖も、誰   か敢て之を禁ぜむ。故に師弟の名、誠に正しければ、則ち道其の間   に行はる。道行れて而して善人君子出づ焉。然らば則ち名は問学の   基也、正ざる可ん哉。某孤陋寡聞なりと雖も、一日の長を以て、其   責に任ず、則ち師の名を辞するを得ず。而して其名の壊ると壊れざ       おほむ   るとは、大率ね下文條件の立つと、立たざるとに在り。故に盟を入   学の時に結び、以て預じめ其の不善に流るゝの弊を防ぐ。   忠信を主として、而して聖学の意を失ふ可らず矣。如し俗習の為め   に牽制せられ、而して学を廃し、業に荒み、以て奸細淫邪に陥らば、   則ち其家の貧富に応じ、某(大塩)告ぐる所の経史を購ひ、以て出   さしむ焉。其の出す所の経史、尽く諸を塾生に附す。若し其の本人、   而して出藍の後、各其の心の欲する所に従ふて可。       みづか   学の要は躬ら孝悌仁義を行ふに在る而已矣。故に小説及び異端、人   を眩するの雑書を読む可らず。如し之を犯さば、則ち少長と無く、   鞭若干、是即ち帝舜教刑を作すの遺意、而して某の創むる所に   非らざる也。   毎日の業、軽業を先にして、而して詩章を後にす。如し逆に之を施   せば、則ち鞭若干。   陰に交を俗輩悪人に締び、以て楼に登り、酒を縦にする等の放逸を   許さず。如し一たび之を犯さば、則ち廃学荒業の譴と同じ。      ひそ                      ほしいまゝ   一宿中私かに塾を出入するを許さず。如し某に請はず、以て擅に出   づ焉、即ち之を辞するに帰省を以てすと雖も、敢て其の譴を赦さず。   鞭若干。   家事変故有らば則ち必らず諮詢す焉、之に処するに道義あるを以て   の故也。某人の陰私を聞かんと欲するに非らざる也。   喪祭安嫁、及び諸の吉凶、必らず某に告げ、与に其の憂喜を同くす。   公罪を犯さば、則ち族親と雖も、掩護する能はず。諸を官に告げ、                             のこ なか   以て其の処置に任す。願はくは們小心翼々、父母の憂を胎す莫れ。    右数件忘るゝ勿れ、失ふ勿れ、此れは是れ盟の恤なる哉。 以上によりて、彼の教育法の如何を知る可く、併せて以て彼の師道の厳           ふたつ にして恵、其の恩威の両ながら能く行はれたるを察す可し。

      ――――――――――――――――――     大塩の妻女離別 大塩平八郎、氏は源、名は後素、其人となり漂白を好み、気質衆 人に異なり、言語方正、胸中洒落、小心大胆、文武を兼備せり。 少年より兵書を座右にし、且武衛流の炮術を極め、また王陽明を したひ、議論文章に巧みなり。増補孝経彙註、儒門空虚集語、洗 心洞箚記等を著述し、今世に行はる。都て周旋処置、近藤貞固に 彷彿たり。嚮に高井城州、浪華の町奉行たりし時、かれを見出し て吟味の係となしければ、即日に妻を離別して、後曾て婦女を近 付ず、奴僕をして薪水をとらしめたり。其故は、若し妻ある時は 其ちなみもて訴訟の事に頼を容るゝものあらんには、百に一二は 聞届る事もあらんなれば、おのづから勤務の妨となるは必定なれ ば迚、久離せりと聞ゆ。其時妻の衣服調度の料として金参拾両を 出し与ふ。妻は仰天して欺き悲しめ共、迚もかく迄決行せらるゝ うへは言語を費すとも詮なしとあきらめて、なく\/其言にした がひしとぞ。又文政の頃、耶蘇の法、京摂に行はるゝ時、昼夜の 差別なく、肝胆を砕きて穿鑿をとげ、明白厳重に裁断せし始末、 実に人の及ぶべきにあらず迚、厚く賞与を蒙りしとぞ(此時班を すゝめられて御譜代になされ、白銀十枚を賜はる)。此事人の口 碑に残れり。後高井城州職を転ぜられければ、平八郎も務を辞し て、家督を格之助に譲り、年未四十に足らずして閑人となり、文 武の道場を開き、従学する者多しといふ。扨此度の一條は何たる 訳歟知ざれ共、是全く狂気を発していたす所ならん歟。洗心洞は 平八郎が別号なり。  天保八年丁酉二月廿八日 烏有翁誌  〔巷街贅説〕   ――――――――――――――――――

   
 


幸田成友『大塩平八郎』その186その187
『巷街贅説』その19


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