Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.12.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


「天保の大飢饉」その9
白柳秀湖

『民族日本歴史 近世編』千倉書房 新版 1944 所収

◇禁転載◇

第十二章 インフレ・政治の行詰りから封建的新体制計画まで
 第四 天保の大飢饉(9)
  <補註>天保大飢饉の惨状と地方人心の不隠
   (七)国学者・生田万の越後柏崎陣屋襲撃事件(2)
管理人註

         やう  『乍去大塩平八郎様の大事は堅く禁制の事』に申し合はさねばならぬ。し かし、第一に二人の代官を始め、これと結託してゐる米屋共には天誅を加へ なければならぬ。天誅を加へることは楽翁様の御趣意にそふもので、楽翁様 に代つてするのだといふことが、くど\/と認めてあつた。  柏崎の町にこの落し文が降り始めると間もなく、生田万は柏崎を去つた。 それは五月九日のことであつた。突然樋口出羽を訪ね、自分は三條なる藤懸 丹後方を訪ね、場合によつては、半月ほど遊んで来たいと思ふ故、留守のと ころは何分頼むといひ置き、門弟・山岸加藤治を従へて、飄然三條に赴いた。  藤懸丹後は、樋口と同じ三條の神官で、万の熱心な帰依者の一人であつた。 彼は三條でしばらく藤懸の家に滞在した後、新潟に遊び、又引かへして、こ のたびは同じ三條町なる大庄屋・宮島義左衛門方に逗留して、その伜達のた めに国学の講義をして居た。  しかしかれの義挙はこの間に計画された。五月三十日には同志・驚尾甚助・ 鈴木城之助・小野沢佐右衛門・古田亀一郎・山岸加藤治の五人と共に、西蒲 原郡なる間瀬から船を出し、夜の九つ過ぎといふ頃刈羽郡荒浜に上陸し、そ の夜の中に、附近の豪農四軒を襲つて金銀穀物を奪取つた後、火を放つて村 民を集め、驚いて駈付けて来た百姓どもに、件の金穀を残らず分け取らせた。  そこで生田等は揚言した。われ\/は大坂に於いて事を挙げた大塩平八郎 の一党である。尚ほこの上にも賑恤を望むものは、われ\/と共に働くがよ い。柏崎に乗込んだ上で、十分のものを取らせようと、そこで一行は農民八 人と、船頭一人とを加へ、都合十五人となつた。これはしかしながら、かれ らの予期を裏切つた結果であつたに違ひない。  しかし、かれらはその先頭に、用意の大旗二旒を押立て堂々と柏崎に乗込 んだ。一旒には『奉*天命*誅*国賊*』とあり。他の一旒には『集*忠臣*救* 窮民*』とあつた。かれらが柏崎に着いたのは六月一日の払暁であつた。か れらは鷲尾甚助と古田亀一郎とを鵜川橋の上に置いて町の方を見張りさせ、 馳突して代官所に至り、火を放つてこれを襲つた。  柏崎の陣屋は、町の西端にあり鵜川を距てた大久保村の小高い丘の上に置 かれてゐた。この陣屋には郡代・勘定頭・代官・横目・預所元締・勘定奉行・ 勘定人・公事方掛・手代・下横目・郷使・町同心・砲術方・馬廻り・書院番・ 城内番組等の役目を帯びた諸役人が凡そ六十人ほど、それ\゛/附近にその 住居を構へてゐた。代官は一人の時もあり、二人の時もあつたが、この時は 二人であつた。  陣屋側は不意をうたれて少からず狼狽し、小者の中には戦はずして逃げる ものが多かつた。浪士側では、鈴木條之助が最もよく戦ひ、数人を殺傷した。 鈴木條之助は城之助、または城之扶に作る。江戸の浪人で、万が事を挙げる 少し前に、江戸から三條の大庄屋・宮島義左衛門方に来て、子弟に神道無念 流の剣法を授けて居たものである。万と宮島方に落合つて忽ちに意気相投合 し、一挙に加はつたものである。  (附記)條之助の名は蒲原郡柄沢氏所蔵の写本、『越路廼義談』による。      同書中屍体検案のくだりには城之助とある。  この時柏崎の陣屋はちやうど火災にあつて類焼した後で、新築が落成せず、 門も、役所もまだやつと屋根を葺き廻した程度であつたので、諸役人は多く 附近の民家を借りて住んで居たが、追々に変をきいて駈付け、人数を加へた が、浪士側には加勢をするものが一人もない。こゝでも彼等の目算はがらり と外れた。  これは生田万が歌人などによく有り勝ちな白己陶酔から、柏崎・三條地方 に於ける自分の文名を過大に見てゐた結果であらう。由比正雪も大塩平八郎 も何ほどかそれで愆られてゐる。  陣屋側の人数が加はつてゆくに引きかえ、浪士側は追々にその一味を討た れ、鈴木條之助も遂にその場に討死した。首魁生田万も身に数創を被つて身 体の自由を失つたのを山岸加藤治が肩に引かついで海浜の方にのがれた。鵜 川橋を固めて居た鷲尾甚助・古田亀一郎の両人も途中からこれに加はり、海 浜に至り万と共に砂上に踞して屠腹した。たゞ鷲尾甚助一人は最後に残つて、 一同の介錯をした後、万の首級を抱いて、その踪跡をくらましたが、間もな く江戸表に自訴して出で、義挙の顛末を遂一陳述に及んだ後、獄中で病に罹 り、刑の執行を俟たずして斃れた。  生田万事件のあつた翌年、すなはち、天保九年には、柏崎からは呼べばこ たへん佐渡国上山田村に義民・中川善兵衛なるものがあつて同志十三人をか たらひ、飢民救助の為に暴動を起したことがあつた。越後地方ではこれも生 田万等と聯絡のあつたことであると噂され、従つて大坂なる大塩中斎の残党 であるとされたものであるが、徳川氏の世もこの天保の大飢饉とまで事態を 悪化させてしまつては、もう天下乱離の外に行きつくべきところはなかつた のだ。一歩をあやまれば、日本国中が、蜂の巣をつゝき毀したやうになるこ とが見え透いて来た。




『維新革命前夜物語(抄)』
その14 

黒頭巾
「大塩平八郎と生田万(下)愆(あやま)られて
 


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