Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.12.21/2003.9.1修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 乱」その11

『大阪市史 第2巻』(大阪市 1914、1927再版)より

◇禁転載◇



改行を適宜加えています。

三、末 路(3)

評
定
所
の
吟
味

暴動鎮定後、自訴したる者、生擒せられたる者、又は一味の嫌疑を以て召喚せられたる者、合計数百名に及び、与左衛門町牢屋敷内の新牢は或は之が為に新築せられたるものなりといふ。
六月平山助次郎○六月二十日自殺吉見九郎衛門・竹上万太郎・大井正一郎・大西与五郎・美吉屋五郎兵衛夫妻等を江戸評定所の訊問に附し、其他は御勘定評定所留役山本新十郎及支配勘定評定所留役助白石十太夫を大阪に派して訊問せしめ、翌年八月廿一日罪科を判決して一件初めて落着したり。

 
裁
決

即ち吉見九郎右衛門平山助次郎は当初隠謀に与りしと雖も、密告の功に因り、罪を免して譜代に列し、小普請に入らしめ、旧禄を給ひ、九郎右衛門子英太郎及河合八十次郎二人は平八郎の邸内を忍出で、九郎右衛門認むる所の与党連名状を町奉行に上りし功に因り、銀五十枚宛を賜ひ、平八郎父子・竹上万太郎・大井正一郎・庄司義左衛門・瀬田済之助・小泉淵次郎・渡辺良左衛門・近藤梶五郎・宮脇志摩・孝右衛門・郡次・九右衛門・忠兵衛・源右衛門・伝七・司馬之助・文哉・才次郎・利三郎を大阪に於て引廻の上磔刑に、其他死罪・遠島・追放・押込・手錠・科料・叱等に処せられたる者百数十名、吟味中牢死したるもの亦少からず。

 
刑
の
実
施

かくて九月十八日平八郎以下の処刑を大阪に於て執行し、城南鳶田に梟すこと三日なりしが、受刑の際生存せしは竹上万太郎三平の二人にして、他は塩漬の死体に刑を加へ、又利三郎は死体麋爛せしが為、其墳墓を壊ちて刑に代へたり。

    評定所書留、評定所吟味伺書、申渡書、旧惣年寄今井克復氏談話(史談会速記録)、
 
主
犯
者
の
子
弟

評定所の判決は主犯者の父兄妻子及暴挙に附和雷同せる者に対し、極めて寛典に従ひ、平八郎の子弓太郎を永牢とし、巨魁忠兵衛孝右衛門等の男児を遠島に処せるも、十五才まで之を親類預とせるを以て、識者大に之を嘆賞せり。

に
対
す
る
寛
典
平
八
郎
裁
許
状
の
失
態

然れども平八郎の判決文に於て「格之助え可嫁合約束ニ而養置候摂州般若寺村忠兵衛娘みねと及奸通」とあるに就いては一言の弁無からざるべからず。
評定所の此文を成せるは、吉見九郎右衛門の訴状に採りたる事疑無し。
夫れ九郎右衛門は反覆の士なり、陰謀を告ぐるに当り、旧師の過失を大にするの傾無きを得ず、而も評定所一座の直に其言を採れるは、或は平八郎の罪を鳴すに急にして、真偽を判ずるを要とせざりしか。
仮に此事ありとせんか。
みねの父忠兵衛が平八郎に党して、最後に至るまで敢て志を渝へざりしを解する能はず、又格之助が終始平八郎に対して孝敬の態度を持せしを解する能はず、坂本鉉之助平八郎と交あり、数々之を訪ひ、父子親和の実を目睹し、「大塩父子の如くあらば、如何に養子なればとて、親の慈愛も日々に厚かるべく、子の孝敬も月々に深かるべく、是全く礼義の能為す所なりと」嘆美し、裁許申渡書を評して「之は一向に合点参らず、罪状に何故ケ様の事まで書載られし事か、大坂市中の者抔平八郎の事を難有がるもの多き故、其人気をくじく為か、畢竟此度の罪科は反逆にて、ケ様の事は仮令実にもせよ、其身一分の科にて、此度の罪科に申さば枝葉の事なり、書載られずとも然るべくや、況や其実にもあらずば猶更なり」といへり。
東湖随筆に載せたる矢部定謙の説と東西符節を合するが如し。

    吉見九郎右衛門密訴、咬菜秘記、東湖随筆、
*
賞
賜

幕府は判決申渡と同日を以て、動乱鎮定に功ありし者に賞を行ひ、土井利位 ○天保八年五月所司代と為り、同九年四月老中に進む、 に刀一口を、遠藤胤統に鞍鐙を、胤統の用人畑佐秋之助に銀二十枚時服二領を、組与力坂本鉉之助に銀百枚鹵獲砲一門を、同本多為助に金五十両を、同心山崎弥四郎に金三十両を、同糟屋助蔵に金二十両を賜ひ、鉉之助を大阪御鉄砲方とし、御目見以上の末席に、為助弥四郎を御譜代に、助蔵を上下格に進め、町奉行及城代定番の間を往復して伝令の任務に服せし三町人の一人尼崎又右衛門に銀十枚時服二領を賜ひ、代官根本善左衛門同池田岩之丞等に褒詞を与へ、次いで評定所に於て暴徒吟味の任に当りし中野又兵衛外五人に縮緬金銀等を賜へり。

    本丸廻状留、塩賊騒乱記、
 
 


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