Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.12.24/2003.9.1修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 乱」その12

『大阪市史 第2巻』(大阪市 1914、1927再版)より

◇禁転載◇



改行を適宜加えています。

 四、乱 後 の 賑 給(1)

 
 


二月十九日巳ノ刻より燃続きたる火災は、廿日戌ノ下刻に至り漸く鎮りしが、同夜より翌日に亙りて大雨あり、難を番場に避けたる罹災者には、盥の中に踞れる産婦あり、筵の上に臥せる病者あり、疱瘡流行の折柄とて、之に感染苦悩せる小児も多く、其状見るに忍びず、彼等が苦悶呻吟の声相合して遠く玉造口土橋に聞えたりといふ。

 
道
頓
堀
芝
居
に

されば急に道頓堀劇場を以て罹災者収容所に充て、保護を受くべき親戚故旧無き者を入らしめしが、家財を携へて避難せる人々は、之を託する所無きに苦み、収容所に入らんと欲して入る能はざるもの多かりき。
廿一日官令して暴徒の鎮定を告げ、民情を慰撫し、毎町をして番人を置かしめ、又類焼者の家財は御救掛町を設けて之を保護せしむるにより、安じて収容所に赴くべしと諭したり。

罹
災
者
を
収
容
す
御
救
小
屋
三
ケ
所
を
設
く

但し、道頓堀の収容所は咄嗟の間に成り、久しく此地に罹災者を置く能はざりしにより、新に天王寺御蔵跡及天満橋南北両詰に御救小屋を設けて之に徒し、三月四日道頓堀収容所を閉鎖しぬ。
新収容所に於ける被害民は三郷混淆なるも、其事務は各組之を分担し、天満橋南詰東元堺町にあるものは北組、天満橋北詰にあるものは天満組、又天王寺御蔵跡○五月北組収容所の東隣に移る、にあるものは南組之を掌り、毎組に掛町を置き、掛町ならざる町々よりは毎夕申ノ刻を期し、二町宛一組となり、町代二人人足二人を出し、掛町と交代して夜警の任に当り、明朝を以て掛町と交代せしめたり。

 
掛
惣
年
寄
の
諭
告

是時御救掛惣年寄の説諭に曰く、御救小屋にある者は速に各々一定の職業を求めて、自活の資を求むべく、借家を求むる者あらば、家主は不法なる家賃を取らずして其要求に応ずべく、又奉公を望む者あらば御救小屋にありたるを名として無下に之を退くること勿れと。
三ケ所御救小屋に収容したる罹災者は、今其員数を明にせずと雖も、悉く窮民を収容し得たるにあらざるは論無し。

 
再
び
三
郷
并
に
兵
庫
西
ノ
宮
の
窮
民
に
二
千
石
を
賑
恤
す

城代土井利位再び現米二千石を発し、御救小屋以外の窮民にして三郷并に兵庫西ノ宮に散在する者を賑し、三月八日毎戸に白米二升八合を分配し、又加島屋作兵衛・千草屋恒五郎・堂島新地十町等、町々及己人四十八口の義捐額合計銭二万七千三百廿五貫文・金千疋・米十俵を三郷類焼難渋人に施し、同月十日毎戸に銭一貫文○大塩焼による焼失竃数合計一万二千五百七十八軒なり、是等を悉く難渋人と見做して、毎軒一貫文を施すも、尚多額の残高あり、此残高は爾後申出でたる町々及有志の施銭額と併せて、本年六月廿六日及七月四日の施行銭に充てられしなるべし、を分配せり。

    咬菜秘記、御触及口達(天保八年)、御救米請取候南米屋町借家人御請証文、施行銭請取候南米屋町假住居類焼難渋人連印帳、
町
々
有
志
の
義
損
額
と
其
配
当


御触(乱発生後)


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