Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.12.27/2003.9.1修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 乱」その13

『大阪市史 第2巻』(大阪市 1914、1927再版)より

◇禁転載◇



改行を適宜加えています。

 四、乱 後 の 賑 給(2)

人
心
慰
撫
及
罹
災
者
救
助
に
関
す
る
各
種
の
法
令


二月下旬市内の秩序稍々恢復せしも、尚婦女童幼の飛語流説に周章狼狽するあり、又入津米の少額なるべきを臆測して悲観する者ありしかば、官市民に諭し、安堵して業を営ましめ、有力なる暴徒は大抵或は縛に就き、或は自刄したるを以て、危惧するの要無し、来る雛祭も例年の如く祝すべしといへり。
此他搗米商が猥に直段を引上げ、或は押買狼藉を恐れ、門戸を閉して容易に小売せざるを戒め、建築材料たる材木板類其他諸色直段を出火以前に等しからしめ、家主の不法なる家賃を貪り、大工左官等の規定外の賃銀を要求するを禁じ、米方年行司に諭して米相場の平準を計らしめ、南堀江町三丁目、上難波町・阿波町・堂島船大工町・雑喉場町の町会所に与力同心の出張所を設け、不逞の徒を取締り、本年に限り、特に竹木類を仲買の手を経ずして直接問屋より購入するを許し、畿内近江六ケ国の大工・木挽・日雇等を使役するを得せしめ、又随意の船舶を以て土砂を運搬するを許す等、人心慰撫及罹災者救助の方法を講ずること頗る至れり。

    御触及口達(天保八年)米商旧記、
 
暴
動
以
後
の
物
価
騰
貴

三月廿七日平八郎父子自滅し、上下始めて安心せしと雖も、兵乱による悪影響は容易に之を除くを得ず、諸色直段は暴動以後日を追ふて騰貴し、二月百六十七匁の肥後米は、三月に二百十八匁五分、四月に二百四十二三匁となり、五月は少しく下りて二百二十五匁となり、六月は復上りて二百四十八匁となり、六月十五日の中国米入札は二百八十五匁三分五厘といへる無比の相場を示し、

 
細
民
の
窮
厄

小売相場之に伴ひ、最高白米一升三百六十四文・麦二百六十四文・大豆二百八文、小豆二百六十四文に達し、細民の困苦名状すべからず。
富者と雖も朝夕は粥を啜りたりといへば、下民は唯露命を繋ぐといふに止り、大根・大豆・小豆・黒米・豆腐滓等を米に交へ炊き、甚しきは糠又豆の皮を食し、路傍餓死者あるに至れり。

 
時
疫
の
流
行

加ふるに暑気に向ひ、時疫流行し、死者夥しく、六月中千日の墓所にて火葬に附する者日々五六十人に及び、七月に至り益々甚しく、千日・梅田・小橋の墓所にては、深穴を穿ちて行倒人を投入したりといへり。
されば官民力を合せて之が救済に従ひ、本年麦作豊富の聞あり、近在農家食料以外の麦を収穫せば売却すべし、米商人に非ざる者猥に近国に至り、米麦等を糴買すべからず、搗米屋に就きて米を購はんとする者前後遅速を争ひ、狼藉に及ぶべからず、搗米屋も亦必ず白米小売代価を差札に明記し、法外の利益を貪るべからずと令せり。

 
間
銀
を
搗
米
屋
に
与
へ
て

而して是等搗米屋に間銀○時価と売価との差額を下付し、一人五合を限り、廉価を以て白米を販売せしむることは四月以前に起り、餝屋六兵衛・播磨屋仁兵衛・大根屋小十郎等八名先づ之に加り、其後己人又は町中より間銀として米を義捐する者多く、合計二千四百五十石余に及べり。間銀の下付は多数の市民をして恩恵に均霑せしむるものなりと雖も、搗米屋に就いて白米の小買をすら為し得ざる窮民にとりては、直接米銭を与ふるに如かず、

白
米
を
廉
売
せ
し
む
銭
五
万
貫
文
の
下
賜
と
其
配
当

是を以て五月十八日官銭五万貫文を頒ち、窮民毎戸に銭六百四十八文を与へ、次いで去年九月の例に傚ひ、極難渋人の氏名・職業・家内員数・年齢等を調査せしめ、六月廿六日町々及有志の施銭中より銭若干文○施銭総額及一軒分割当額を明にせず、但し、極難渋人の調査を去年九月の如くせしめたるより考ふれば、施銭の方法も同年十月の例に傚ひ、名前人一人に銭若干文、家族一人に銭若干文とありしなるべし、を頒ち、七月四日更に之に準ずる難渋人毎戸に銭四百文を施し、又時疫に対しては享保十八年二月に示せる応急薬法を頒布したり。

    米商旧記、近来年代記、御触及口達(天保八年)ほどこし名前録、南米屋町御触綴、施行銭請取候南米屋町借家人連印帳、
町
々
有
志
の
義
損
額
と
其
配
当
目
印
山
船
溜
の
開
鑿

下民をして恩恵に狎れしむるは、策の得たるものにあらず、之に糊口の方法を与ふるを以て良策とす。是故に寺社巨商に命じ、普請砂持を行ふべきを勧誘し、又官自ら安治川口目印山上手に船溜開鑿工事を起し、其土砂を運搬する者には男女老幼を問わず一日三回粥を与へたり。
是歳九月南米屋町町人より同町年寄に宛てたる一札に「目印山砂運ニ罷出候もの、并当七月八月両月分御救銭被下候外」、極々難渋人を調査上申すべき命ありしが、我等借家人中之に該当する者無しとあれば、八月にも亦施銭ありしが如し、然れども今其事実を詳にせず。

    御触及口達(天保八年)、手鑑、
土
砂
運
搬
の
男
女
に
粥
を
賜
ふ
大
塩
焼
後
借
屋
の
払
底

本年二月の大火の為、借家の払底を来し、家屋の賃借につき又質入したる家屋の焼失につき、紛紜を生じたること論を竢たず。家屋借入を申込める者、御救小屋にありたるを口実として、貸与を拒絶すべからず、家賃を取りたる者、焼地面を引請けざる可からざるに至らば、帳切出銀は定式の二十分一銀に止め、町々役人等が受納し来れる祝儀銀も、右歩一銀の内にて差略すべしとあるは是が為なり。

 
家
請
人
の
勉
励

六月惣年寄三郷家請人惣代并に在郷家請人惣代に諭し、家請人は身元引請人無き借家人を保証し、若し家主より借家明渡を請求し、借家人他に立退くべき所無くば、之を家請小屋に収容し、撫育を加ふるを本旨とす、宜しく今日に当り株式の本意を発揚すべく、町々亦能く此旨を領し、猥に難渋人と称して家請小屋に送致すべ からずといへり。

を
諭
す
大
番
衆
の
御
用
宿
の
不
足
を

又従来大番衆の御用宿は北組南組に属する上町船場示町々にて引請けしが、上町示町四十七町は類焼後家屋の建築も不揃なるに、既に八月の交代期に逼りしかば、南北両郷示町以外にて助宿あらんことを請ひ、其承諾を得、以て天保十年に及べり。

    御触及口達(天保八年同十一年)、
南
北
両
郷
に
て
助
勢
す
 

大塩乱後に於ける官私の施設略々右の如し。

 
三
ケ
所
御
救

米価は六月を最高とし、多少の高下は有りながら次第に下落の趨勢を取り、殊に九月に至り本年豊作の見込立ちて、肥後米百二十目に下り、同月廿七日三ケ所御救小屋を閉鎖するを得たり。

小
屋
の
閉
鎖
本
年
五
月
分
川
浚

然れども饑饉と大火とに困難せるは独り細民のみならず、中流以上も亦疲弊せること明なれば、是月川浚冥加銀一回分を免除し、五月上納の三千三百十七両を返還し、明年興行の勧進能を明後年に延期し、

冥
加
銀
の
免
除
目
印
山
裾
地
冥
加
銀
の
上
納
を
猶
予
す

次いで新城代間部詮勝○下総守、九月晦日著阪の巡見に際し、往来を遮断し、道路橋梁を修繕し、芝居小見世物を休業せしむるに及ばずと令し、目印山裾地冥加銀の上納を猶予し、又翌九年正月に至り三郷公入用中に銀百貫目を賜ひ、北組に四十七貫六百十九匁五厘、南組に三十八貫九百五十目二分四厘、天満組に十四貫二百八十五匁七分一厘を分配せり。

郷
入
用
補
助
と
し
て
銀
百
貫
目
を
賜
ふ
酒
造
所
売
額
の
制
限
を
廃
す

是より先き九月幕府は本年の豊作を認めたれども、尚酒造額を去年の如くならしめ、天保四年以前の造高及減石高を精細に届出でしめ、此の如く元高の検査を厳重にしたる上は、江戸表其外他所積の酒樽数の制限は沙汰に及ばずと令したり。
故に大阪にても其旨を奉じ、十月十一日米方年行司を召し、他所積米に関する制限を厳守するには及ばざれど、一作のみにては前年来の不足を補充する能はざるべければ、宜しく勘弁を加へ、融通合を専一として正路の売買を行ふべしといへり。

 
米
価
の
下
落

米価は十月肥後米九十三匁七分、十一月九十一匁八分、十二月九十七匁にして、越年米高八十五万三千九百四十五俵を有しき。

    御触及口達(天保八年・同九年・同十一年)、米商旧記、福田氏天保雑記、
 
 

天保七八両年に亙れる米価騰貴一件は之にて落著を告げたり。

 
賞
賜

而して其間米価平準に窮民賑恤に功ありし者皆賞を受く。即ち跡部良弼は江戸廻米の功によりて金及時服を賜り、諸家は増廻米の尽力によりて褒詞を得、三郷町々・諸仲間・己人は米銭施行の篤行によりて白銀又は褒詞を賜り、又御救小屋に従事せる三郷四百五十九町○御救小屋掛町及類焼町を除く、の町代は銭百貫文を賜り、其町々には人足賃として百貫文を下付せられたり。

    本丸廻状留、大村家覚書、福田氏天保雑記、御触及口達(天保八年)、
 
 

「大塩乱」(大阪市史)了


御触(乱発生後)


「大塩乱」目次/その12

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