Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.12.11/2003.9.1修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 乱」その7

『大阪市史 第2巻』(大阪市 1914、1927再版)より

◇禁転載◇



改行を適宜加えています。

二、騒 乱(3)


跡
部
良
弼
出
馬
す

跡部良弼利堅に後るゝこと少時、未ノ刻頃門を出づ。
是より先き蒲生熊次郎馬を馳せて玉造口に帰り、大砲送附の旨を上申するや、定番遠藤胤統与力柴田勘兵衛・脇勝太郎・石川彦兵衛・米倉倬次郎四人に命じ、百目筒二挺三拾目筒一挺を携へて東町奉行所に赴かしめ、玉造口派遣の援隊にして良弼の配下にあるもの、今や与力七名同心三十二名を数ふるに至れり。
鉉之助請ふて先鋒となり、同心を二列とし、嚮導の町奉行組同心一人を従へて挺身し、味方打を防がんが為に良弼の纏を先頭に立つ。

 
内
平
野
町
の
衝
突

前隊骨屋町筋より内平野町を西に向へば暴徒数百恰も平野橋の東端に在り。良弼の纏を望み木砲を放つ、其間彼我相距る一町半許、鉉之助炎煙中に暴徒の砲門を認め、同心に射撃を命じ、卒一名を倒す。須臾にして暴徒平野橋を渡りて西に退却せしが、鉉之助の隊も亦黒煙に沮まれて之を追ふを得ず、嚮導及纏持は遥に後れたり。此時良弼の本隊は松屋町筋を南下して内平野町に出でしかば鉉之助疾駆して之を過ぎ、思案橋を渡り、瓦町に出で、八百屋町筋に暴徒在らざるを見、更に進んで堺筋に至れり。

 
淡
路
町
堺
筋
の
衝
突

初め暴徒の内平野町に於て撃退せらるゝや、衆漸く逃亡し、淡路町堺筋に至れば僅に百余人に過ぎず、庄司義左衛門大井正一郎先頭と為り、官兵を砲撃せんとし、義左衛門誤つて負傷す。
鉉之助同心に折敷射撃を命じ、自ら一発を放ちて挺身し、与力本多為助・同心山崎弥四郎・糟谷助蔵等之に次ぐ。

 
鉉
之
助
の
殊
勲

鉉之助西側紙荷の陰に潜み、敵の砲手浪士梅田源右衛門を狙撃せんとするや偶々東側用水桶の陰より鉉之助を狙撃せんとせる賊兵○下辻村猟師金助あり、為助之を注意すれども聞えず、即ち銃を執つて之に向ひ、三者殆ど同時に発し、為助は賊を逸し、賊丸は鉉之助の陣笠を貫き、而して源右衛門は響に応じて斃る。

 
暴
徒
四
散

鉉之助等突喊して淡路町に出で、西を望めば暴徒既に影を留めず、其遺棄せる銃砲弾薬類の路傍に散乱し、狼狽せる市民の右往左往に逃惑へるを見るのみ。

 
鹵
獲
品

已にして良弼の本隊至り、兵火も亦附近の地に延焼し来りしかば、敵の兵器百目筒三挺○車台附巣口四寸許の木筒二挺○内一挺車台附長持二棹・具足櫃二荷・火薬入革葛篭十二三個・鎗三四本・小筒三挺・太鼓一個・旗二本等を鹵獲し、弾薬を井中に投じ、更に附近の民家を捜索して暴徒一名を捕縛しぬ。

    両町奉行書取、畑佐秋之助等届書、咬菜秘記、玉造口与力同心働前明細書、評定書吟味伺書(大井正一郎ノ條)、
 
堀
利
堅
再
び
兵
を
進
む

是より先き堀利堅は内平野町筋に跡部良弼と会し、良弼の列中にありし玉造組与力米倉倬次郎・石川彦兵衛・脇勝太郎三人、及鉄砲同心二十余名の来援を得て良弼と別れ、玉造組与力を先頭と為し、本町橋を渡りて船場に入り、本町を西に進む。
利堅先頭に後るゝこと常に半町許、先頭屡々其急進を促す。
而して鉄砲同心も亦逡巡して進まず、甚しきは途に逃亡する者あり。
船場に入るに及び、剰す所僅に十三四人のみ。

 
両
隊
相
会
す

勝太郎高声を発し、其腑甲斐無きを叱し、「元来何之為に恩禄ヲ頂戴仕候哉、此期ニ望、ケ様之体実ニ以恐入候事、如何之心得ニ候哉」と責むれども、敢て答ふる者無し。此の如くんば徒に暴徒を追尾するに止り、遂に之に会する能はざるを憂ひ、利堅に請ひ、隊を二分して敵を挟撃せんといひしが、利堅兵力乏しきを称して許さず、勝太郎難波橋筋に至りし頃、偶々北方に銃声を聞き、踵を返し、堺筋を北進して良弼の隊と会せり。
是に於て良弼利堅相合して一隊となり、淡路町を西進せしが、暴徒既に散乱して之く所を知らず、因て兵を班し、両町奉行本町橋東詰に於て袂を分ち、彦兵衛倬次郎は利堅の請により之に従つて西町奉行所に赴き、良弼は城に入りて暴徒逃亡の顛末を報告し、鉉之助等五名同心一統は番場にて良弼に分れ、東町奉行所に入り休息せり。

 
跡
部
良
弼
入
城
し
て
暴
徒

是日利堅の一隊は火事装束の下に着込を著したるに過ぎざりしが、良弼以下は甲冑を著したれば、挙動敏捷を欠けるのみならず、良弼の乗馬は異様なる行装に驚きて疾駈し、良弼地に墜ちて急に起つこと能はざりしといふ。
利堅の落馬と共に両町奉行一幅の失態といふべし。

    両町奉行書取、畑佐秋之助等屆書、玉造口与力同心働前明細書、咬菜秘記、甲子夜話後篇、
逃
亡
の
顛
末
を
報
ず


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