◇禁転載◇
三、末 路(1) |
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人 相 書 を 附 し て 平 八 郎 父 子 及 其 徒 を 索 む |
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風 説 頻 々 |
二月二十日払暁、定番遠藤胤統玉造方面形勢不穏にして暴徒再挙の風説あるを聞き、援を東大番頭菅沼定志に求め、其衆を東大番頭小屋裏の一番櫓二番櫓に置き、暴徒玉造口に襲来せば、側面より射撃すべきを命じ、又組与力同心の隠居并に二三男を悉く召集して城門を守らしめ、別に与力二十人同心四十人を分つて二隊と為し、城外東は黒門口より南は真田山八丁目附近に至る間を警戒せしめんとせり。 | |
平 八 郎 等 身 を 変 じ て 逃 げ る | 平八郎等淡路町堺筋に敗れ、淡路町を東に逃るゝこと半町許にして民家に入り、家人を威して去らしめ、風俗を変じ、裏の塀を毀ちて平野町に出て、避難民に紛れて東横堀川より八軒家に至る頃、残党其後を慕ひて来り加り、一行凡て十四人となれり。 | |
一 行 分 離 |
一行強ひて河岸に繋留せる船に搭じ、船頭無宿直吉を促して中流に出で、着込鎗等を水中に投じ、天満橋附近を上下して密に行先を議せしに、平八郎は火中に投じて自滅する決心なりと告げ、其妾ゆうみね○みねは忠兵衛の女に自殺を勧めしめんが為に、先づ忠兵衛を上陸せしめ、作兵衛之に伴へり。 | |
瀬 田 済 之 助 及 渡 辺 良 左 衛 門 自 殺 す | 平八郎・格之助・済之助・良左衛門、義左衛門五人遂に免る可からざるを知り、火に入りて死せんとし、孝右衛門及三平に勧め、一行と別れ去らしめ、五人は寺町筋を北又は西に進みしが、群衆混雑して身を火中に投ずる機会を得ず、其間義左衛門は平八郎等四名と相失しぬ。是より二十四日夜戌ノ刻過、平八郎父子が油掛町手拭地仕入職美吉屋五郎兵衛宅○靱下通二丁目紀伊国橋筋東入 を訪へるまでは、四人の消息甚だ明ならず、二十五日河内高安郡恩知村*○中河内郡南高安村大字恩知山中に於て縊死せる済之助を発見し、同日志紀郡田井中村○同郡志紀村大字田井中に於て自殺○平八郎介錯せりといふ、せる良左衛門を発見したるを以て見れば或は亀ケ瀬を超えて大和に奔らんとしたるなるべし。
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党 員 の 捕 縛 自 首 自 殺 相 踵 ぐ |
済之助良左衛門の外、一党中重立ちたる者の末路を見るに、義左衛門は平八郎等と相失したる後伊勢に遁れ、次いで大阪に帰らんとして途に南都に捕はれ、孝右衛門は三平を伴ひ、縁族河内渋川郡大蓮村○中河内郡長瀬村大字大蓮大蓮寺隠居正方を訪ひ、髪を剪りて僧体となりしが、伏見に於て、三平と共に捕縛せらる。郡次は十九日戌ノ刻帰宅し、済之助の養父藤四郎并に済之助の妻子に会し、之を送りて河内星田村に至り、分れて自宅に帰りたる後領主役場に自首し、九右衛門源右衛門は二十日夜高野山真福院に上り、幾ならずして下山し、平野郷にて袂を分ち、九右衛門は領主役場に、源右衛門は支配役所に自首し、又忠兵衛は作兵衛を伴ひ、伊丹伊勢町幸五郎方に赴き、潜伏せるゆうみねに自殺を勧め二女の之を聞かざるや、二女及平八郎の子弓太郎を伴ひ、作兵衛を従者とし、丹波路を経て京都に赴き、廿七日縛に就けり。竹上万太郎は十九日訴状を認め、之を同僚吉田邦次郎に委して一旦播州に遁れ、大阪に帰らんとして半途に生擒せられ、宮脇志摩の死体は廿一日庄本村地内の溜池にて、近藤梶五郎の死体は三月九日自邸の焼跡にて発見せらる。
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