辛丑雑記
の一節
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すべて飢饉には粗食の結果として、痢病・疫病等のともなふ者である。
されば飢ゑて死ぬるものゝ外に、病みて斃るゝもの多く、従つて酸鼻の状
を呈するに至るのである。花井有年の辛丑雑記に、当時の悲惨窮乏の有様
をこまかに書き述べた一篇の文があるから、こゝに附載する。但し打ちこ
はしの年を六としたのは、七年の誤である。
天保四年、天保五年、この頃打ちつゞき、歳みのらず、こゝに至りて大
飢饉なり。天保六年、またみのらず、八月四日、うちこはしといへるこ
とあり。こは貧しき人、多く集りて、富める家の米貯へたるをうちやぶ
ることなり。甲斐の府中のは、人数多くいとおそろしく、榛原村のは、
人死もありけりとぞ。この時、米一升につき百五十文なりしが、八月十
五日、風雨にて、二百五十文となりける。天保七年も秋すくなくて、三
百文になりける。こゝに至りて饑て死するもの多く、そのゆゑに疫病流
行して、一統伝染しける。一日にこの町中にて五十人、死したる日もあ
りける。乞食となる人も多く、食を乞へとも、なか/\あたふるものな
ければ、餓死人多し。さきのほどは、御使などものして、厚く葬らせ
抔しけれども、後にはゆき倒れたるまゝにて、たれおさむるものなかり
ける。いづくにゆきても、死せる人のあらざる道なし。己なども饑つれ
ども、いまだ死には至らず。然れども後々はいかゞなるやらんと、いと
おそろしかりき。諸道具などうりしろなせど、買ふ人すくなく、やう/\
売りえたるも、いさゝかなる代にて、一合の価にもいたらず。薄き粥を
日々のみ、わづかに腹をうるほすのみなり。わらべなどこそ、いと/\
あはれになむ。かうやうの事は、世の物語にこそ聞き侍りつれ。かう目
の前に見もし聞もし、飢もしつるは、いと悩ましく、いとむねつぶれる
こ とになむ。かうやうの時は、互に用心しければ、つね心得たる人も、
しぞくともすくひくるるは無きものなり。さて人人病るは、初め身体や
せつまり、色は黄色になり、しばしゝて疥癬などでき、まなくうきはれ
て、死する事なり。こは薬石のすくふ病にあらず、米にあらずは、此の
病は治することあたはず。己れくすしの業はなしながら、手をこまぬき
て居るのみなりき。いと心苦しきことなむ。この時は稗粟などのみ食ひ
ければ、ふごつまりて悩みける人、いと多かり。己れ之に教へてひえあ
はなど食ふには、かならず青菜、木の芽などいれて食ふべし、かくすれ
ばふごつまることなし、人々かうやうにしければ、悩まざりける。かう
長き饑饉なれば、葛の根やまの芋・ところほくりなどは掘りつくしてけ
り。よもぎ・ちゝこなえのきの芽・たらの芽・うど・おほばこ・昆布・
キヨウフ
あらめ・法令など思ひ/\にとりて食ひける。後は彼岸花の根をも掘り
つくしける。天明の凶年には、かつを・いかなど多くとれけるとなむ。
今はかうやうの物までとれることなく、いとおぞましきことになむ。六
月は天気よく、暑気強く、作物はよろしきよし、いひあへれば、いきた
る心地して、よろこばしくは侍りつれど、餓ゑたる上に、此の暑にたへ
かね、しよ邪に打ち臥すもの多し。其の上疫病痢病しきりにはやり、み
まかるも多し。わらべなどはことに多し。いと恐ろしくて、悲しきこと
うま
なりける。其節になりければ、田畑の作物、いまだ熟ざるをぬすみとり、
芋を掘り、茄子・南瓜・瓜・にいたるまで盗みける。すこともおこた
ることならずなむ。いとあさましき、はしたなきことゝは思ひながら、
みなうえたるからと、いと悲しかりき。米二百八十文、麦これに同し。
小豆・大豆・そらまめ・ふんとう・ひえ・あは・きび・大根・薩摩芋な
どにいたるまで、其のしろいと貴かりける。山中村はことに甚しく、む
らのとみになくなりける所もあり、さてかうやうの時は、人々おごれる
心は更々なし、金銀もちながら餓死たるもありける。天保八年四月二日
には、将軍家御代ゆづりありける。その五月に、清水湊御蔵ひらかせた
まひて、籾米をすらせ、御助米をくだしたまはる。七歳以上、男一人ま
へ九升、女一人に七升、富たるもの、召仕などあるは、五人以上のくら
しより二俵つゝ御かし米となしたまへり。すべて府中・丸子・清水・江
尻など御支配の人別、一万五千余人なりと。かう多くの者へ御助米くだ
さるは、まことにあり難きことになむありける。
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徳富猪一郎
『近世日本国民史』
その22
花野井有年
花井有年
(はなのい ありとし)
駿河府中の儒医
(かき)
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