Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.4.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


「天保の饑饉 大塩の乱」
その14

静岡市市史編纂課編

『静岡市史編纂資料 第3卷』
静岡市  1928 所収

◇禁転載◇

第一二章 天保の饑饉 大塩の乱 (14)管理人註


米価騰貴
と大塩の
乱

   大 塩 の 乱  天保の初より再び凶作がつゞいて、米価は次第に騰貴し、困窮する者が 多くなつたが、四年 二四九三 には、陸奥・出羽に飢饉が起り、五年に至 つて益々甚しく、江戸には餓死する者が多く、又前後数年に亘つて例の打 毀しが江戸、諸国共に行はれた。七年、又大風雨が打ち続いて、諸国一般 に凶作であつたが、無能なる官吏は応急の方法をも取らないので、遂に暴 力に訴へて窮民を救はんとする者も出て来た。有名なる大塩の乱はそれで ある。大塩平八郎 名は後素 は大坂町奉行の与力であつたが、王陽明派の 学者で、実行を尚び、其の職にある時、妖巫、奸僧、贓吏などを厳罸して 高名であつたが、文政の末から隠居して、洗心洞書院に於て、門人に講授 して居た。今や窮民の餓死を見て坐視するに忍びず、蔵書を売払ひ、私費 を以て救済してゐた。天保八年 二四九七 二月上書して、官米を以て飢民 の急を済ふ事を建白したけれども、町奉行跡部良弼 山城守 之を取上げは なんだから、平八郎は大に怒り、窮民を救ふと称し、其与党と共に乱を作 し、火を大阪の市中に放つた。二月十九日 然るにこの時、同志の中に変 心して奉行に密告した者があつた為め、城代、町奉行は用意の兵を発して 之を拒いたので、賊徒は三日にして潰散した。平八郎は暫く市中に匿れて 居たが、捜索の厳重なる為に自殺した。  大塩の乱は主なる者、与力・同心等僅に七人、斬られし者合せて二十三 人に過ぎぬのであつて、単に徒党といふ点から云へば、当時としても決し て多数の方ではなく、農民の一揆などにもこれより遥かに人数の多いもの が少くないのである。それにも拘はらず、この大塩の乱が独り有名なるは、 全くその中心人物が大塩中斎なる当時人気ありし人物であること、其の土 地が大阪と云ふ大都会なりしが故であつた。


徳富猪一郎
『近世日本国民史』
その22
















尚(たつと)び

















拒(ふせ)いた


実際は半日
で敗走した

幸田成友
『大塩平八郎』
その159


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