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へうかん
上を下への此大混雑の真最中に、彼は慓悍血気の大井正太郎なる一青
年と安田図書とに命じて、異腹の高弟宇津木矩之允靖通(彦根藩老臣宇
津木総の弟にて、故岡本黄石翁の実兄、天保五年に洗心洞に入塾し、同
七年四月、一旦帰国、六月再び洗心洞に入れるもの)を軍神の血祭に上
けんぐう
げさせた。矩之允は、平八郎最愛の門人で、眷遇他と異なるものがあつ
たが、矩之允の思案は全く平八郎と異なり、臆病心からでなく、飽迄此
挙兵を不義と考へる立場に立つた。されば、此場を逃れんともせず、心
頭に生死を放下して、今一度恩師に直諫の機をもがなと考へつゝ厠に在
る間に、正一郎は已に迫つて、内より出で来る彼を待つたが、出様の遅
い為に堪へ難く、白刃片手に自ら戸を引き明け、師命也、とて矩之允を
喚び起し、之を斬殺した、矩之允は已に其事有るを予知して居たから、
正一郎の未だ来るに及ばざる刹那の前に、従僕良之進に密命を含め、遺
書を托して、郷里の彦根に向はせた、良之進は怒号し廻る正一郎の声を
もと
聞きつゝ、心許なく大塩邸の裏口を忍び出たといふ、今に伝へて一場の
悲劇とし、矩之允の死を憐れまぬもの迚はないが、併し平八郎に取つて
も、今決束して起つたといふ時に、異腹者を其儘に活け置くは全軍の士
ふる ばしよく
気に関する。所謂涙を揮つて馬稷を斬るで、最愛の高弟の斬殺も余儀な
き次第と覚悟したらしい。
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慓悍
すばやい上に、
荒々しく強い
こと
大井正太郎
は後述の
「正一郎」
が正しい
眷遇
目をかけて
もてなすこと
幸田成友
『大塩平八郎』
その125
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