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此の大井正一郎といふ青年は、余程の乱暴者であつたらしく、本多為
助の話に、『今度人相書に出候大井正一郎と申者は、拙者同役伝次兵衛
倅に候処、剛気不敵の少年にて、親類は勿論、父の教戒をも不相用、
悪事といふ悪事のみ振舞候大あばれものにて、手にあまり候処、拙者槍
術の門人に付、意見を加へくれ候様、伝次兵衛より被頼候間、拙者正一
おびたゞ
郎を召寄、意見致候へば、其夜に至り、拙者宅の門塀と屋上の瓦夥多し
く打砕き申候様なる者にて、最早勘当いたし候外無之との評議に至候処、
拙者心付候は、平八郎、格別の人物にて、師弟之作法、厳重に有之、且
つ恩愛も深く、既に養子格之助との交り、実子よりも親しく、別段なる
事に相聞え、尤拙者は朱子学、平八郎は陽明学にて、学風は違候得共、
才徳共仲々平八郎には遠く及び不及申事に候へば、右正一郎を一ト先づ
平八郎へ託し、教誡為致候はゞ可然、と申候へば、父並親類一同に喜
び無此上心付と申聞候に付、拙者、平八郎宅へ罷越、右之次第申聞候へ
ば、平八郎挨拶に、不肖之身、何共安心不致事に付、入門為致候処、
其後正一郎行状、丸々已前とは引かはり、天晴の人物に相成候に付、人々
ぞんじ ます/\
も誠に不思議なる事に存、益、平八郎に感服致居候処云々』とある、是
で其性格の委曲を尽して居る。
此正一郎が、矩之允を仕留めたと呼ばはつて、平八郎に報告の時には、
ちう こさう
已に殺気天に冲するの勢を以て、一同鼓躁して出る所であつた。其陣容
は、一同、槍、長刀、鉄砲等を携へ、五七ノ桐の紋所、下に二つ引の印
ある旗一流、天照皇大神宮、湯武両聖王、並に東照宮大権現と認めた旗
二流、救民と大書した幟半(小旗)一本を押立て、大筒四挺を車台に載
まへぞなへ あとぞなへ
せ、全隊を前備、中備、後備の三陣に分ち、前備は格之助、之を率ゐ、
中備は平八郎、之を率ゐ、後備は瀬田済之助、之を率ゐ、此三人は着込
野袴で、白木綿の鉢巻を締め、之に続いて、渡辺良左衛門、近藤梶五郎、
庄司義左衛門、格之助若党曾我岩蔵、守口町孝右衛門、般若寺村忠兵衛、
源右衛門等の面々、何れも着込を着し、刀を帯びて居る、後陣には人夫
ねぶ
をして長持葛籠を担いて従はせた。而して其最先頭に、已には血を舐つ
た狼の如き勢を以て、獰猛な眼を光らせ乍ら、着込を着し、長槍を執つ
た彼の大井正一郎が立つたので、彼は此時正に廿三歳であつた。
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坂本鉉之助
「咬菜秘記」
その50
本多は坂本の
誤りか
『摂州大乱記』
その2
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