Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.3.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その100

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十三、挙兵準備と其齟齬 (8) 管理人註
   

 扨て挙兵の時機は如何、平八郎は天保八年二月十九日に決定したが、 其訳は、西町奉行矢部駿河守が九月に江戸へ帰り、其後任として堀伊賀 守が十一月に任命になつて居るが、其大阪着は二月の二日である、そこ で恒例に従ひ、同勤の東町奉行矢部駿河守と共に三回に分つて、市中の 巡見をせねばならぬが、初度は北組、二度目は南組、三度目は天満組で、 天満組では、堂島の米市場、天満の青物市場、天満神社、惣会所等を巡 見した後、最後に与力町に廻り、大塩邸の直ぐ向側なる迎方与力(江戸            すぐ                   したが で町奉行の新任あるや、直に其組与力同心の総代として、同心二名を随                    やしき へ、江戸に出迎に行くもの)朝岡助之丞の邸へ立寄り、休息することに 定まつたが、其時間が此十九日の申刻(午後四時)と聞いたからなので、                    おほづゝ 其機を逸せず、同邸に押寄せ、両町奉行を大砲で討止め、続いて市中に          そうりん ひら      あまね 火を放ち、富豪等の倉廩を発いて其貯蓄を普く窮民に給与せやうと謀つ たのだ。         まさ  然るに此計略の将に成らんとする間際になつて、東組同心平山助次郎、 同吉見九郎右衛門、同河合郷左衛門の三人の変心者を生じ、正月十七日 に郷左衛門は三男謹之助を伴れて出奔する。助次郎と九郎右衛門とは、                   ひそか 共に返り忠を試み、助次郎は十七日夜、密に跡部山城守役所へ駈け込み、                          はか 用人野々村次平の取次で奉行に面会して密告し、跡部の計らひで、矢部 駿河守に宛てた書面を持ち、陳情の為に、十八日払暁、江戸を指して出 発した。九郎右衛門は其倅英太郎、郷左衛門の倅八十次郎、両名が、平             ぬす 八郎の手許から檄文を一枚偸み取つて駈け附けたので、それに自筆の訴 状を添へ、東組には平八郎位一味の者が居るから、其眼を避ける為とて、 ことさ 故らに支配違ひの西町奉行堀伊賀守の役宅へ十九日の朝七つ前(四時前) に、右の八十次郎、英太郎の両人に持たせて駈け込ませた。十九日の前 夜は、平八郎一味の東組与力瀬田済之助、同小泉淵次郎の両人が当番で、 東役所に泊つて居たので、あつたが、最早や露顕に及んだのだから致方 がない、それ、両人から召捕れといふ山城守の命令一下、用談の間に呼                        うし ばれて行く途中、淵次郎はハツと気附いて逃げ出す後ろから斬殺された。                  はだし 済之助は逸早く奉行所の塀を乗越え、跣足で天満橋を一目散に大塩邸へ と駈け附けて、注進に及ぶ。平八郎の計略は、スツカリ齟齬し、両町奉                 たゞち 行は其日の天満組巡見を中止して、直に大塩一党召捕の策に額を集めた、 こなた                           あえ 此方は平八郎、息急き切つて駈け附けた済之助の報告を聞きも敢ず、ス ハ裏切者有りと覚えたり、銘々用意、と高声に呼はり乍ら、急に使を八                     こゝ         よんどころ 方に馳せて、同志を招き、人夫を催促し、事是に至つては 拠 無い。先                                 んずれば、人を制すだ、坐して討手を待たんよりは、我より発するに如         かね かずとなし、俄に予て準備し置ける通りの部処に就いた。







同勤の東町奉行
は跡部山城守


有働賢造
「川路聖謨と大阪」
嘉永四年に東町
奉行に任命され
た川路の市中巡
見の記録あり





















『塩逆述』
巻之五
その12
平山助次郎の
江戸行前後の
事情がある








幸田成友
『大塩平八郎』
その190
吉見の密訴状


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