大塩の騒乱は、是で全く鎮静したが、兵火は猶ほ容易に止まらばこそ。
八方に燃え拡がり、廿日の夜の五つ半(九時)頃に漸く消し止められた。
延焼区域は、天満では川崎から堀川迄、船場、上町では、東は弓町から
西は中橋迄、北は大川から、南は内東町筋迄で、焼失家屋は三千三百八
十九戸、竈数は一万二千五百七十八個、明借家千三百六戸、土蔵四百十
一ケ所、穴蔵百三ケ所、納屋二百三十ケ所、寺院十四ケ所、道場二十二
ケ所、神社三ケ所、神主並に社家屋敷十戸、といふが如く、其被害は実
に莫大なもので、折悪しく其二十日の晩から、翌日正午に掛けての大風
雨といふ始末であつたから、罹災民の困難は、名状すべからざる有様、
大手前の番場といふ野原へ、諸方から避難して来て、雲霞の如くに集る、
疱瘡流行の折とて、病める小児の泣く声、産婦の呻く声等痛ましくも相
と き
合して、鯨波の如くに遠く迄聞えたといふ、町奉行は、臨機の処置とし
て、急に道頓堀に収容所を設け、窮民を救済したが、此影響として、物
価の暴騰が続く、更に又悪疫の流行が来る。惨状実に眼も当てられぬ有
ぎろう
様、蟻螻の一穴を等閑に附して、千丈の長堤を決潰せしめたるに懲りた
彼等役人や豪商原は、今ぞ漸く眼覚めた心地に、懸命で救済の道を講じ
あひだぎん
たらしく、間銀(時価より安く売払はせて、其差金を官より米屋に支払
ふ事)を米商に給与して、廉売させれば、又多額の寄附金をも集めて、
其秋の米価の下落迄、全く市民の生活を維持する策を講じたが、斯様な
乱後の煩瑣の事には筆を省く、唯茲に一奇として記し置くべきは、大阪
全市の大部分を斯迄焦土に帰せしめた平八郎をば、市民は、其後猶ほ敬
称して『大塩様々々々』と永く語り続けた一事である。
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