Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.4.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その108

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十五、焚死の末路 (1) 管理人註
   

              せいふう  訓練無き烏合の衆を駆つて、腥風血雨の場に赴かしめた大塩党は、敵                  はか/゛\ も弱兵ならば、味方も亦弱兵なので、渉々しき一戦も無く、無残や七花 八裂に終つた無念さには、流石の平八郎も痛憤措く能はざる者があつた                      しほ らうが、而かも城代、並に町奉行の恐怖も亦一入で、平八郎父子を初め、      ことごと 大塩一党の尽く縛に就く迄は、枕を高うして眠る訳に往かぬ、然るに十 九日の衝突には、唯梅田源左衛門の首を得、安田図書を搦め取つたばか りで、其の他は一向行衛が分らず、まだ一人も逮捕されて居らぬから、 彼等は戦々兢々、風声鶴唳にも驚く有様、大阪城には尼崎、岸和田、高 槻、郡山、淀等、諸藩の援兵が充填して警戒をさをさ怠りなければ、町 奉行所迚もその通り、与力同心の詰切は固より、在阪蔵屋敷の面々も、 催促に応じて馳せ参ずる。一方に水陸の道を厳重に取締り、蟻の子一匹 也とも只は通すまいとして居るので、其後或は縊れ死ぬ、或は腹を切る、 或は縄目に掛る等、次第に徒党のものの処置も着いて来たが、如何した 事か、肝腎な乱魁平八郎父子の行衛が分らぬ、二月も果て、三月にもな つたが、まだ分らぬ、当時の本多為助の話を聞くに、平八郎は曾て張良         はくらうさ の偉いところは、博浪沙で始皇の車に鉄槌を投げ附けた事ではなく、事             おは 成らざる後に巧に身を隠し了せた事であるとて、感心して居た事がある から、油断はならぬ、人の気も附かぬ所に今頃潜んで居るであらう。此 頃召捕られ、又は自殺する者は、皆大和河内路だから、平八郎も矢張り 其方面かと思ふ。若し吉野へでも籠つたとすれば、中々の大事だといつ たとやらいふが、此様な話の有る位に、非常に彼の行衛は疑はれ、怪ま れ、怖れられたもので、幕府迄も大に恐怖したらしく、二月廿六日に、 郡山、姫路、尼ケ崎、笹山、岸和田の五藩に大阪出兵を命じても居るし、 豆州韮山代官江川太郎左衛門英龍も、幕府の意を受けて密に剣客斎藤弥 九郎、(是は当時評判の達人で、木戸孝允などの師匠でもある)に命じ、     のきぐち 平八郎の退口を調らべさせ、事宜によつては、討果し苦しからずと命じ たので、弥九郎は命を含んで上阪し、為助にも逢ひ、吉野の山奥迄も探 り、手掛り無いとて空しく引返し、四月七日に江戸へ戻つた。平八郎に     かけ は、天に翔り、地に潜むの妙術が在る。



腥風
血なまぐさい風












風声鶴唳
「晋書」謝玄伝
の故事より お
じけづいた人が、
少々のことに驚
くことのたとえ





「大塩事件勃発
当時の「諸国要
塞ノ警備」状況」






張良は博浪沙で
始皇帝暗殺に失
敗して、雌伏し
た









笹山は
山



大坪武門
「大塩平八郎の乱
に大阪に赴く


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