Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.4.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その109

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十五、焚死の末路 (2) 管理人註
   

                           もろ  平八郎は、淡路町の衝突後、迚も叶はぬと見切りを附け、脆くも徒党 を解散して、何処へなりと随意に立去れと命じ、自分等連名のものだけ、 直に民家を裏に抜け、塀を破つて平野町へ現れ、避難者に紛れ込んで、 東横堀から天神橋の東の八軒屋へ出たのは、丁度七ツ時(四時頃)であ         が し つたらう、大川河岸に小船を認めてそれを打乗り、船頭無宿直吉を脅し て中流に出、着込や槍を水中に投げた。平八郎父子に此処迄従つたもの は、済之助、良左衛門、義左衛門、孝兵衛、忠兵衛、源右衛門、利三郎、 郡次、九右衛門、三平、済之助若党周次、作兵衛の十二人であつた。暫               やが く天満附近を上下して居たが、軅て平八郎は、是より拙者は火中して自                       ゐごん 殺する覚悟だと打明け、忠兵衛にユウ、ミネへの伝言を托し、彼等に自 殺さす様にと頼んで、上陸させ、忠兵衛は作兵衛を伴ひて別れ去る。続 いて若党周次や源右衛門、利三郎、郡次、九右衛門等、次第に上陸し、 最後に平八郎も残れる者を率ゐて、東横堀の新築地より上陸し、暫く物                          ことば 蔭に立止つて行先を相談した後、良左衛門、済之助等が語を尽して平八 郎の自滅を止めて、兎も角一旦は遠国へ落延びる事に定め、四ツ橋迄来 て、刀を水に投じ、脇差一本になり、心当なく下寺町まで来たが、平八 郎は熟思して所詮免れぬ、矢張り火中自滅の外無しと覚悟を変へ、孝右 衛門三平を諭し、金を渡して別れ去らせた。残るは父子の外に只済之助、 良左衛門、義左衛門の三人のみとなつたが、寺町筋を尚も北へ、或は西   さまよ へと彷徨ひ、火事場に接近して見たけれども、非常の混雑の中とて、火 中の機会もなく、兎角する中、義左衛門とはハグれて仕舞つた。残る四 人は、それよりして如何いふ径路を辿つたか知らぬが、共に河内路をさ した丈は間違無く、廿二日に河内国高安郡恩知村の山中で、丸腰の済之                              あと 助の縊死体が発見された、済之助と何処で別れたかも分らぬが、後の三                             やつ 人は、武士体では危険と考へ、途中で頭を丸めて、僧形に身を窶し、昼              うち 夜兼行で、和州路指して急ぐ中、良左衛門は疲労甚しく、一歩も動かし 難くなつたので、河内国志紀郡田井中村で割腹した。平八郎は涙乍らに 之を介錯して進み、一度は和州へ入込んだのであつたが、其筋の取締が いよ/\ 愈々厳重らしい様子に見えた。其頃和州太子堂村の百姓鶴吉が、風体怪 しい二人連の坊主に斬られたといふが、此斬手は、多分平八郎父子に相 違無く、鶴吉等が父子の風体を怪んで、是は兼て御触に出て居る人相書 の大塩親子であるまいかと推し、それなら一手柄と考へて、尾行か偵察 か、或は取押へに掛つた為であつたらう。




幸田成友
『大塩平八郎』
その150


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その108/その110

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