Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.4.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その110

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十五、焚死の末路 (3) 管理人註
   

 それで平八郎父子も斯ういふ次第では前途が危険に思はれる、最早や                   もと 地上に隠れ家もなし、いつその事、灯台下暗しといふから、元の大阪へ 立戻つて、知人の世話を頼んで見やうか、其上で、死中に或は活路も有 るも知れぬと思つたのであらう、大阪油掛町手拭地仕入職美吉屋五郎兵              衛方へと向ひ、最早や夜も更けて、主人夫婦は勝手の方に、其余の家族 は台所二階等に寝て仕舞つた所を、忍びやかに表戸を叩き起し、驚く主 人を構ひなく、兼て案内知る奥の一間にスーツと二人推通つて、それか                           かこ ら主人に懐に入る窮鳥の我身の上を話し、其儘暫く其家に庇はれる事と なつたのは、十九日を数へて、六日目の二月廿四日の晩であつた。後に                       かくま 吟味になつた時の五郎兵衛の白状によると、当分庇ひくれよ、不承知と あらば、居宅へ火を放ち、家内残らず焼殺すと、既に脇差の柄へ手を掛 けるので、是非なく承知し、奥の裏手納戸の小間へ隠し、仕切の襖を堅 く締切り、女房ツネにだけ委細を明したが、其外、家族雇人には絶対に 秘密にするは勿論、怪しまれもせぬ様にと心掛け、食事も夫婦の分を除 き置き、それを五郎兵衛自身に持運ぶ様にしたので、女房ツネも未だ其                        とほり 父子の者に対面して居らぬとあるが、如何にも其の通であつたらう、一 両日の事と思つたけれども、平八郎父子には立去る様子もない、五郎兵 衛宅には、夫婦の外に娘カツ、孫カウ、下男五人、下女一人、都合十人 暮しなので、商売柄とて人出入も烈しく、若しや露顕にも思ばゞと気が          たちのき 気でないが、さればとて、立退を催促すれば、時節到来せぬから、今暫                          よんどころ く頼む。強いてといふなら、一同焼き殺すといふので、拠 なく、更に 工夫して、奥座敷の西手裏続に、平日誰も往かず、明家同然になつて居 る離座敷がある。表裏の戸締厳重で、居宅とは庭を隔て、境目に手厚き 板塀を掛け仕切り、それに小狭い切戸の通ひ口を附けてある、座敷の西 手の入口も同様で、第一に用心の宜しい処なので、是ならば容易に心附 くものも無からうと、夫婦相談の上で、平八郎父子を其処へ移して、食 事は自炊の事にし、平日家内の飯米を五郎兵衛が量り渡す事になつて居 たから、其序に手元に有る紙袋へ白米を詰入れ、塩、香の物等を添へて 持運び、炭、茶瓶、風呂敷等も勿論其処へ差置いた、そして残らず食ひ 尽した時には、切戸を叩きなされ、それを合図に入替へて進ぜますから、                               つもり といふ事にして置いた。其後五郎兵衛より平八郎に向つて如何する積か と内存を尋ねても、只深い所存があつての事とばかりで、一向心底を明        あまつさ かさぬのみか、剰へ右の座敷廻りの戸障子を外し、穴を沢山明け、それ に蒲団の綿を取出して、引裂いて詰込み、焼草にするとて、平八郎着座 かたはら                       の傍に積重ね、強いて立退けといへば、必ずそれに火を点け相な勢であ つたといふ。




幸田成友
『大塩平八郎』
その159














幸田成友
『大塩平八郎』
その193


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