うち
平八郎の知人として世に著名な人は、上述の中に見えた矢部駿河守、
林大学頭、頼山陽、佐藤一斎、足代弘訓等の外に、尚ほ新見正興(豊前
守)、篠崎小竹、猪飼敬所、近藤重蔵、斎藤拙堂等数氏を数ふ可きであ
しか
らうけれども、而かも真に彼に取つて知己と称すべく、彼自らも爾く心
に許したものは、何人であつたらうか、役人としては矢部駿河守、学者
としては頼山陽位のもの、而かも其親みの厚かつた点からいへば、山陽
うち
一人位であつたらうと想ふ、此中斎藤拙堂の如きは面識は固より無く、
僅に一回の往復文位の事で、知人といふ程のものではない、近藤重蔵と
は、近藤が文政二年より同四年三月迄御弓奉行として大阪に赴任して居
したし
た間の交りで、相応に親みもしたらしく、砲術指南柴田勘兵衛の処へ重
蔵の長男を入門させる橋渡をもして、右の柴田に送つた手紙の中にも
『近藤氏も物堅き人柄故』とか『彼の人も磊落之名は有*之候へ共、実
りこう
心において余程賢成処有*之人物に付、御用人中へ内談も平和にて御心
しか
易思召可*被*下候』などともある事が、確に爾く信ぜしめるけれども、
而も心契の友といふ迄には至ら無かつたらしい、足代弘訓とは、天保四
年頃、洗心洞箚記上木当時よりの交際といふが、山田外宮の御師安田図
書を平八郎に紹介して入塾させて居る位の間柄だから、是も相応に親交
が有つたと見る方が自然だ、けれども、平八郎の乱に評定所の吟味を受
けた時には、彼は晩年に平八郎と左迄往来せなかつたと答へて居る、之
を情を矯めた答弁としても、如何に一大忌諱を恐れるとはいへ、却て平
八郎を悪し様に答へたなどして居るのを見ては、之を平八郎の知己なり
とは迚も言へぬ。
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