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剩す所は佐藤一斎であるが、一斎とは未だ一度も面会の機はなかつた
しきり
筈だ、併し一斎には平八郎の方から、益を受る積りで、頻に書面を送り、
それに対して、一斎からも懇切な書面を報ひて居るから、之を親しいと
ほうばう
いへば、無論親しいと言へもしやうが、一斎は極めて鋒鋩を蔵して、世
さうらう えい あら
に顕はさず、滄浪の水の清濁に従つて、或は纓を濯ひ、或は足を洗ふと
いづ
も、孰れにも游泳自在の妙術を会得して居た様であるから、鹿を追ふ猟
ぜいさく
師の山を見ぬ如き、一本道を真直に走る平八郎とは 鑿相容れざる人格
と想ふも、併し当時一斎の名声は、彼の学と才と、而して占むる所の地
せきじん
位の高きとに因つて、四方に籍甚たるものがあつたらしいから、平八郎
ていし
も其評判に魅せられて、彼の提撕啓発を得んと欲するの念が一時盛であ
つた様に思ふ。併し彼には一斎の平八郎に与へた書翰の現存し居るもの
に徴するに、平八郎の持つ意気や張りといふ者が薬にしたくも発見出来
つい
ぬから、多分終には、世渡り上手の当世学者位に心得て止むだ事と想像
えうかう
する、茲に其一端を拾へば、『扨拙も姚学(陽明学)を好み候様被 仰
たんしう
越 候処、何も実得之事無 之、赧羞に堪ず候、姚江之の書、元より読候
しんへん
得共、只自己之箴 に致し候のみにて、都て之教授は並之宋説計にて、
さまたげ
殊に林氏家学も有 之候へば、其碍にも相成、人之疑惑を生じ候事故、
余り別説も唱不 申候事に候、且又江都にては群侯百辟之間に周旋致し
てき
候事に候へば、何学などと申し候事詮も無 之く、只自己に乍 不 及迪
てつ たゞ
哲之実功を骨折、夫よりして君心之非を格し、遂に治務之間にも預り候
へば、漸々人之家国に寸補可 有 之哉に存候、兎角人は実を責ずして名
つとめて
を責候ものかと被 存候、名にて教之害を成す事少からず候へば、務而
主張之念を りて公平の心を求め度候、左候へは却て教化之広く及 申
候事有 之哉と被 存候、返す\゛/も其実無 之ては、何学にても埒明
不 申、たゞ自己之実を積候外無 之とのみ心掛候得共、扨て十が一も存
意通に参らず、浩嘆に堪ず候』とある如き、如何にも老実らしき物の言
廻し、巧ならずとはせぬけれども、又『名にて教の害を成す事少からず
候へば、務めて主張之念を り』といふ事は如何にも道理で、平八郎が
なづ
強いて己の学を陽明学と名けず、至公至平の見地に立つて、孔孟学と称
するにも合ふべき筋ながら、是は其前段に於て、『姚江之書、元より読
候得共、只自己之箴 に致し候のみにて、都ての教授は並之宋説計に而、
かんかく
殊に林氏家学も有 之候云々』といふ文意と直に扞格すべきものだ。何
となれば、拙者は名を立てて事々しく主張するを嫌ふから、唯我信ずる
所を説きて、実を責むるのみだといふなら理解出来るが、彼の言ふ所は
左様ではない、陽明学は自分一己の箴 に致し、他に向つては並之宋説
計に致す、それに林家の家学も有つて、其手前遠慮だからといふに過ぎ
かく
ぬ、是では一つ学問を二様に使ひ分けの芸当を演ずるもの、此の如くに
して、良心の呵責を受けぬ真儒なる者が此世に在り得るなら、不思議な
こと
訳だ、特に江戸では群侯百辟之間に周旋致すから、何学などと申す事は
こうがふ はらわた
詮無いといふに至つては、全然是は苟合主義の俗儒の腐れた腹でないか、
鴻の池に叩頭する小竹と五十歩百歩と謂つ可きだ、
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鋒鋩
刃物などの
きっさき
滄浪
あおあおと
した浪
纓
冠の装飾具
鑿相容れず
二つの物事が、
互いに食い違っ
ていて合わない
こと
籍甚
評判の高いこと
提撕
後進を教え導く
こと
幸田成友
『大塩平八郎』
その175
百辟
諸侯、諸大名
浩嘆
大いになげく
こと
扞格
意見などが食
い違うこと
苟合
迎合すること
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