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伝へ聞く所によれば、彼が初めて謁を水戸の烈公に求めた時に、着物で
か
一大失敗を招き、彼の一癖ある烈公の人物試験に全然落第して、其掌上
に翻弄され了つたとやらいふ、即ち一斎は、御三家中の名侯へ初めての
へんぷく
御目通りだからといふんであつたらう、大に辺幅を修め、上下絹物のジ
ヤラ/\した姿で、謁見の室に通つて見ると、烈公には、簡素極まる棉
服を着けて端坐して居られた。一斎は怖れ入つて、背には汗タラ/\、
ことば はう/\
語さへも体を成さず、這々の体で当日は帰つたといふが、それに懲りて
か、二度目り参邸には、前日の美装を思ひ切つて、棉服に改め、簡素を
かな
愛する烈公の御意に副ふべく、再び謁見の室に通ると、如何した訳か、
烈公は急には出て面会されず、漸くの事で其出座を待ちつけると、今度
は前日と打つて変つた盛装で、柔か物づくめに着こなして居られる、そ
さ う
して着座と共にヂロリ一斎の姿に眼を呉れられた、と見るや、左様か、
ささや
それなら此様に着換へずともだつたにと秋語かれたので、一斎は又も面
すまふ
目無く、出鼻を敲かれた角觝の如くに、気勢上らず、這々の体で此日も
すべ
御前を辷り出たといふ、一斎の心理状態は、如何にも此時の通りで有る
うち
べく、それが此平八郎の与へた書翰の中にも現れて居る。此水戸公に謁
はなし
見の談は何年頃の事か知らぬが、東湖の日記の天保八年四月十三日の條
に、『八ツ時(午後二時)佐藤捨蔵、論語を講ず、これは六七年前より
月々史館にて講じたるを、当月より御書院へ移し玉ふなり』とあれば、
多分天保二三年の頃の事と想像する。小山田与清の日記の天保五年の四
月二十六日の條にも、『水戸相公御封国よりのぼらせたまひて、小石川
ばかり
の御屋形に着かせ給ふ、巳の時計、御屋形にまうでて、大廊下に御天守
番饗庭三郎右衛門、余、佐藤捨蔵、列座して御目見えせり、捨蔵は、祭
酒(林)の家の学頭にて、名は恒、逸斎と称す』とあるから、兎に角一
すが
斎は其志を遂げ、旨く水戸に縋り着くだけは着いて、其史館に講義を命
くらゐ
ぜられ、折々烈公に謁見位はして居つたであらうけれども、唯学者とし
て其蘊蓄を尽させられた以外に、格別重用の事も無かつたらしく、筆達
者で、当世の人物を縦横に批評し書き留めた東湖の遺稿にも、絶えて一
斎の人物に説き及んでいない所を見ても、水戸藩には極めて凡庸視され
てきてつ
て居た様に想像される。されば『迪哲之実功を骨折り』などと、自らは
力んで見ても、畢竟空念仏に過ぎなかつた事と思ふ、
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辺幅
外見。うわべ
藤田東湖
「丁酉日録(抄)」
その21
小山田与清
『松屋筆記』の著者
幸田成友
『大塩平八郎』
その175
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