Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.4.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その122

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十七、交友と著述 (4) 管理人註
   

伝へ聞く所によれば、彼が初めて謁を水戸の烈公に求めた時に、着物で          一大失敗を招き、彼の一癖ある烈公の人物試験に全然落第して、其掌上 に翻弄され了つたとやらいふ、即ち一斎は、御三家中の名侯へ初めての                     へんぷく 御目通りだからといふんであつたらう、大に辺幅を修め、上下絹物のジ ヤラ/\した姿で、謁見の室に通つて見ると、烈公には、簡素極まる棉 服を着けて端坐して居られた。一斎は怖れ入つて、背には汗タラ/\、 ことば         はう/\ 語さへも体を成さず、這々の体で当日は帰つたといふが、それに懲りて か、二度目り参邸には、前日の美装を思ひ切つて、棉服に改め、簡素を          かな 愛する烈公の御意に副ふべく、再び謁見の室に通ると、如何した訳か、 烈公は急には出て面会されず、漸くの事で其出座を待ちつけると、今度 は前日と打つて変つた盛装で、柔か物づくめに着こなして居られる、そ                              さ う して着座と共にヂロリ一斎の姿に眼を呉れられた、と見るや、左様か、                   ささや それなら此様に着換へずともだつたにと秋語かれたので、一斎は又も面            すまふ 目無く、出鼻を敲かれた角觝の如くに、気勢上らず、這々の体で此日も    すべ 御前を辷り出たといふ、一斎の心理状態は、如何にも此時の通りで有る                  うち べく、それが此平八郎の与へた書翰の中にも現れて居る。此水戸公に謁   はなし 見の談は何年頃の事か知らぬが、東湖の日記の天保八年四月十三日の條 に、『八ツ時(午後二時)佐藤捨蔵、論語を講ず、これは六七年前より 月々史館にて講じたるを、当月より御書院へ移し玉ふなり』とあれば、 多分天保二三年の頃の事と想像する。小山田与清の日記の天保五年の四 月二十六日の條にも、『水戸相公御封国よりのぼらせたまひて、小石川               ばかり の御屋形に着かせ給ふ、巳の時計、御屋形にまうでて、大廊下に御天守 番饗庭三郎右衛門、余、佐藤捨蔵、列座して御目見えせり、捨蔵は、祭 酒(林)の家の学頭にて、名は恒、逸斎と称す』とあるから、兎に角一              すが 斎は其志を遂げ、旨く水戸に縋り着くだけは着いて、其史館に講義を命            くらゐ ぜられ、折々烈公に謁見位はして居つたであらうけれども、唯学者とし て其蘊蓄を尽させられた以外に、格別重用の事も無かつたらしく、筆達 者で、当世の人物を縦横に批評し書き留めた東湖の遺稿にも、絶えて一 斎の人物に説き及んでいない所を見ても、水戸藩には極めて凡庸視され                           てきてつ て居た様に想像される。されば『迪哲之実功を骨折り』などと、自らは 力んで見ても、畢竟空念仏に過ぎなかつた事と思ふ、







辺幅
外見。うわべ





























藤田東湖
「丁酉日録(抄)」
 その21




小山田与清
『松屋筆記』の著者




















幸田成友
『大塩平八郎』
その175


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その121/その123

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