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し な
平八郎が『我を知る者は山陽に若くは莫し』といつて居る所を見ても、
山陽のみは他の人々と違つて、全く彼の心契の友であつたと思ふ。而し
かく
て二人の斯の如く相許すに至つた原因は、何処に在るか、平八郎の自記
には、『夫れ山陽の善く詩文を属し、史事に洞通するは詩客文人の知る
所、而して我れは甞て吏と為り、訟獄に与り参じ、且つ陽明王子の致良
知の学を講ずる者也、世情を以て之を視れば、山陽と相容れざる如く然
り、然れども往来断たず、送迎絶えざるは何ぞや。余の山陽と善くする
は、其学に在らずして、窃に其胆にして識有るに取る、而して山陽は、
何の観る所有つて、以て我と善くするか、吾初め識らざる也、庚寅の秋、
ゆ
余致仕の後、尾張の宗家大塩家に如き、以て祖先の墳墓に謁す、其時に
当り、山陽此序を製し、我之行を餞す、其の人の言ひ難き時事に於て、
彼れ独り能く口を開いて之を言ひ、忌憚之情態有る無きは、其胆の発見
に非ずや』と、是で見ると、平八郎が山陽を好むのは、其学問よりは胆
力と識見とを併有する点に在るのだが、山陽が自分を好むのは、如何な
る点に在つたが、自分はそれを尾張の本家へ往つた時に、山陽が送つて
呉れた序を見る迄は知らなかつたといふのである。然らば山陽の送つた
其序なるものには、如何様の句があるか。山陽は其序中に平八郎の人物
を評して、『故に子起を観るに、其敏に於てせずして、其廉に於てし、
其精勤に於てせずして、其勇退に於てす』といつて居るのだ、尚ほ斯う
書いた山陽の胸中を其序の前文に因つて解釈するに、彼は平八郎を以て
を
功名富貴を喜ぶ者で無く、喜ぶ所は、間に処つて書を読むに在りと見、
平素平八郎に勧むるに、余り精明を過用する事無く、時機を見て、勇退
せよといつたのだが、平八郎は其言を納れて致仕した、是に於て自分は
日頃平八郎の敏才であるといふ事よりも、廉潔であるを愛したが、更に
今其精勤であつた事よりも、勇退を敢てせし事を一層愛する。平八郎の
まさ
人物を観るは、当に此二点に於てすべきとの意を示したものである。
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『洗心洞箚記』
その34
幸田成友
『大塩平八郎』
その173
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