Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.4.24

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その124

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十七、交友と著述 (6) 管理人註
   

                し     な  平八郎が『我を知る者は山陽に若くは莫し』といつて居る所を見ても、 山陽のみは他の人々と違つて、全く彼の心契の友であつたと思ふ。而し     かく て二人の斯の如く相許すに至つた原因は、何処に在るか、平八郎の自記 には、『夫れ山陽の善く詩文を属し、史事に洞通するは詩客文人の知る 所、而して我れは甞て吏と為り、訟獄に与り参じ、且つ陽明王子の致良 知の学を講ずる者也、世情を以て之を視れば、山陽と相容れざる如く然 り、然れども往来断たず、送迎絶えざるは何ぞや。余の山陽と善くする は、其学に在らずして、窃に其胆にして識有るに取る、而して山陽は、 何の観る所有つて、以て我と善くするか、吾初め識らざる也、庚寅の秋、                 余致仕の後、尾張の宗家大塩家に如き、以て祖先の墳墓に謁す、其時に 当り、山陽此序を製し、我之行を餞す、其の人の言ひ難き時事に於て、 彼れ独り能く口を開いて之を言ひ、忌憚之情態有る無きは、其胆の発見 に非ずや』と、是で見ると、平八郎が山陽を好むのは、其学問よりは胆 力と識見とを併有する点に在るのだが、山陽が自分を好むのは、如何な る点に在つたが、自分はそれを尾張の本家へ往つた時に、山陽が送つて 呉れた序を見る迄は知らなかつたといふのである。然らば山陽の送つた 其序なるものには、如何様の句があるか。山陽は其序中に平八郎の人物 を評して、『故に子起を観るに、其敏に於てせずして、其廉に於てし、 其精勤に於てせずして、其勇退に於てす』といつて居るのだ、尚ほ斯う 書いた山陽の胸中を其序の前文に因つて解釈するに、彼は平八郎を以て                     功名富貴を喜ぶ者で無く、喜ぶ所は、間に処つて書を読むに在りと見、 平素平八郎に勧むるに、余り精明を過用する事無く、時機を見て、勇退 せよといつたのだが、平八郎は其言を納れて致仕した、是に於て自分は 日頃平八郎の敏才であるといふ事よりも、廉潔であるを愛したが、更に 今其精勤であつた事よりも、勇退を敢てせし事を一層愛する。平八郎の        まさ 人物を観るは、当に此二点に於てすべきとの意を示したものである。



『洗心洞箚記』
その34

































幸田成友
『大塩平八郎』
その173


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その123/その125

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ