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平八郎は、更に其序の文に就いて、特に山陽の胆の発見が有る様に言ひ
『其人の言ひ難き時事に於て、彼れ独り能く口を開いて之を言ひ、忌憚
の情態有る無し』と称して、非常な喜び方をして居るが、それは如何な
る文字であるか見やう。世に伝はり居る洗心洞箚記の附録には抹殺の個
処が甚だ多いが、今其抹殺された文字だけを拾つて見ると、其所謂『人
の言ひ難き時事』なるものが明瞭に観取され得る。即ち初めに『三都之
ニ ス シ クシテ ツシト メ シ ス ニ ル
市皆有 尹、而大阪称 最劇且難 治焉、蓋地濶 絶大府 』と、次に『至
モ ギ ヲ テ スニ ヲ
王侯仰 其鼻息 以為 憂喜 』の一句中の初め『至 王侯 』の三字と、そ
リ ムル ニ ス ラント チ ギ ニ ンズル ヲ シ
れから以下『尹来治者、更欲 弗 常者、乃属吏襲 子孫 、請 故事 如
ノ グ ヲ テ ヲ シ ニ シ ニ ビ ニ キ ヲ
掌故 、而尹仰 之、成々以 賄蠹 于上 浚 于下 結 猾賈 延 閭閻 、黠
ヲ ス ト チ ル ノ ハ ス ガ ト 々 ヅト ニ ル ヲ カモ
民為 爪牙 乃至 藩服要人或為 之支党声気交通 、尹心知 之、而主客勢
リ シ ニ リ ル ク フ ヲ
懸、苟 傍観』と、『蓋上有 高井君之為 尹、能用 子起 、子起』と、
メテ クル ヲ ラ ル ラバ ハン ヲ ンバ ラ ラント ヲ ニ リ
『子起之始 受 密命 也、自度事済 補 国、不 済 破 家、家有 一妾 、
シテ ヲ メ カラ ロ スル ル ニ シ ヲ シ ヲ シ ヲ デ ニ シ
出 之使 無 所 累、然後運 籌、決 策、指 顧親信 、発摘出 意外 、斃
ヲ ベテ キ ニ ス チ グ ヲ ヲ
其為 封豕長蛇 者 、駢 首就 戮、内外股栗、乃挙 其贓 得 三千余金 、
ク レ ノ ト ク ス ヲ ニ ツテ ツ スルノ ヲ ヲ ノ スル
曰、是民膏血、尽給 之小民 、因 建 振 済 煢独 法 』と、『民持 蕃
ヲ シ ノ ヲ ヅ ネ
教 者』の一句中の『蕃教者』の三字と、『又汰 浮屠汚行者 、先 申
ヲ ル ス ス ルマデ ノ ニ ケテ ヲ ク ヲ メ
戒勅 、不 悛者流竄、群邪屏息、至 京幾諸衙 、承 風黜 貪墨 、奨
ヲ フ ノ ニ
公廉 』と、『名震 三都間 』の一句中の『三都』の二字と、『高井君
ゲ ヲ フ ヲ
告 老、請 代』との頗る数多き文字が抹殺されてある。是を見れば、当
時の政弊、吏俗、僧風に関する事、並に高井山城守と平八郎との関係の
如き点が、頗る時の忌諱に触れ易く、人の容易に筆にするを敢てせなか
つた所と察せられるが、而かも山陽は、昂々焉、之を大筆して憚らなか
つた、是が平八郎の一片稜々たる侠骨と相照徹して、痛く其悦ぶ所と為
つた所以で、如何にも彼の一斎の徒とは、肌合に雲泥の差がある様に思
ふ。其二人の間に親交の結ばれた事も、左こそと推測される。尚ほ其平
八郎の自記を見ると、平八郎所蔵の趙子璧の蘆雁の図幅を山陽が欲しが
り、京都から大阪迄三度も来て呉れ/\といふから、平八郎は気根負け
して、遂にこれを呉れたら、山陽は喜んで七言古詩の一首を贈つた。其
あはたゞ わす
後山陽が急遽しく来て、菅茶山遣愛の杖を何処かの船着場に遺れて来た
どうぞ
ので、捜すけれども見当らぬ、足下の力で何卒捜し出して貰ひたいと頼
み入る、平八郎は当時の職掌柄とて、早速手を廻して捜り得、使に其杖
さいはひ
を持たせて『老竹幸に未だ化して龍と為らず、猶ほ潜んで某水の辺に在
り云々』と言ひ送り、山陽は大に謝して、又七言古体一詩を贈つた。そ
の後山陽が日本外史を著す時に、平八郎の門外不出の蔵書胡致堂の読史
管見を借りに来たので、除外例として快くそれを貸してやつたら、山陽
は深く之を徳として、其本を送り返す時に、七言古体一詩を賦して贈つ
た。それから日本外史の脱稿した時に、今度はそれを平八郎の方より一
部所望してやつたら、山陽は写本一部を贈つて来たから、浩澣な物を唯
で貰つては置けぬと考へ、如何程の代銀をやらうかと訊いたが、山陽は
他人なら黄金だけれど、足下の事だから、代銀など無くても宜しいが、
強いてと言はれるなら、足下平常の佩用の刀を一口貰ひたいといふ、そ
こで平八郎から月山作の九寸有余の短刀を贈つたら、是にも山陽は七言
かく
古詩を賦して礼に寄越したといふ、此の如く、其交情には頗る蜜の如く
に甘いものがあつたのだ。
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『洗心洞箚記』
その35
『洗心洞箚記』
その37
幸田成友
『大塩平八郎』
その83
浩瀚か
書物の多く
あるさま
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