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いな
固より天下は決して盲目でない。否人才は如何なる世にも存在するが、
唯それが顕れると隠れる。力を持つと、力を持たぬとに因つて時の政治
の善悪は分れるのである。即ち当時に在つても此位の道理は少くも矢部
としあきら
駿河者定謙とか、岡本忠次郎豊洲ととか川路三左衛門聖謨とかいふ幕府
とき
の能吏等の間に能く知れ切つて居た事実であつたけれども、唯時利有ら
ず。物言へば唇寒き秋風の吹く時代であつた。から口を噤んで押し黙つ
ばつこ
て居た迄の事で、而して是が忠成の跋扈し得た所以であつた。「世の中
りやう
は諸事御尤ありがたい、御前御機嫌扨おそれ入」の天明の俚謡は此頃に
も矢張り一大真理を教へて居たのだあつた。
う る さ
貨幣が如何に五月蠅く行はれたかを茲に列記して見るならば、文政元
しんじ い さうじ
年四月に真字二分判を鋳た。同二年六月に草字文金を鋳た。同三年六月
に新銀を改鋳した。同七年二月に二朱銀を鋳た、同七年五月に一朱金を
鋳た。天保六年に天保通宝を鋳た。天保八年に五両判、小判、一分金
ぶんきん ほきん
(二度改鋳初度の者を文金といひ二度目の者を保金といふ)を鋳たとい
ふが如く、前後八回の改鋳を行つて居るが、一回は一回より其量目を減
じ、其質分を悪くして居る。例へば金貨でいへば、慶長小判(一両)の
ふん
量目は四匁七分〇四、質分は百分中金八十五、六九、銀十四、二五、銅
少量であるのに対して、文金は量目は三匁五分、質分金五十五、九四、
銀四十三、八六、銅〇、二、保金の量目は三匁、質分は金五十六、七五、
銀四十三、一五となり、銀貨でいへば慶長銀の丁銀豆銀を通じて(丁銀
おほよ
豆銀と共に秤に掛けて交換する故量目不定なるも大凡そ丁銀は三十九匁、
ふん
豆銀は五、六匁より三、四分の間也)其質分は百分中銀八十銅二十であ
るのが、元禄時代に銀六十四、銅三十六となり、元文時代に銀四十六、
銅五十四と、次第に悪化して居るけれども、猶ほ文政、天保に比すれば
遥に上の部である。即ち文政には銀三十六、銅六十四、天保には銀二十
六、銅七十四となり、飛び離れて質分が低下して居る。
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徳富猪一郎
『近世日本国民史
文政天保時代』
その6
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