忠成の新
貸鋳造
またも幕
府の財政
難
有金の減
少
文化十四
年の倹約
令
臨時御入
筋差延差
繰を命ず
右倹約令
の意義
新たに弐
分判を鋳
る
二分判を
通用令
弐歩判切
貨の事
|
松平定信の政治は、利を興すよりも、害を除くにあつた。田沼意
次の政治は、害には殆んど無頓著にて、唯だ利是れ興すにあつた。
水野忠成に至りては、田沼程の企画もなく、唯だ将軍の驕泰を助
びぼう
長して、一時を弥縫するにあつた。而して彼が功労として、将軍
より殊寵を被りたるは、専ら新貸を鋳造して、其の分合の差を以
て、焼眉の急ある財政を救うた一事だ。
寛政時代には、松平定信節倹の政治の結果、幕府の財政にも、若
干の余裕を生じ、其の宝庫には、若干の貯蓄も出で来つた。され
ど文化の末、文政の始に至りては、幕府の持病とも云ふ可き財政
困難症に冒された。文化十四年には、勘定奉行服部伊賀守、古川
山城守上書して、財計頗る困乏、当年暮の有金高凡そ六十五万八
百六十余両に過ぎず、此れでは明年一切の支用を弁ずる能はざる
旨を陳べた。
要するに寛政度の有金に比すれば、四十二万八千九百両を減じた
と云ふ。而して閣老諸有司策の出づる所を知らず、翌年に至りて、
遂ひに通貨通済の下策に出づることとなつた。即ち元禄年間、幕
府財政紊乱の例を開きたる、荻原重秀の故智を襲うたのだ。而し
て此れが水野忠成が、勝手掛(文政元年二月二十九日)となりた
る第一の施設であつた。
四月晦日附にて、左の如く倹約励行を、御勘定奉行に令した。
なかんづく
一 近年引続御倹約被仰付、就中去る申年(文化九年壬申)
厳敷御省略被仰付、御入用減方も有之候へ共、一体御勝手
向御充実に無之候処、打続不時之御物入等も莫大にて、恩
召之外、未御繰合も不宜。此通にては弥非常御備、又は御
家人御扶助等之御手支も難計、不容易事に付、猶又当寅年
(文政元年)より来々辰年(文政三年)迄、三ケ年之間、
改て御倹約被仰出候。
右に付ては天明七未年以来相達候通、只今迄諸向油断は無
之候へ共、御定高有之候迚も、臨時御入用之方にて相増候
へば、御出高に於ては、御倹約之詮無之候間、御定高にた
とひ不拘、銘々役所限之出精を以、御定高を可成丈相減候
様取計。仮令御入用筋被仰渡候ても、差延可然分、又は差
略いたし宜筋は、聊無遠慮、役所限之存寄、評議之趣、可
被申上候。尤役所々々御入用減方仕法、勘弁いたし可被申
聞候。惣て御政事向に付、御差支無之ため之御倹約にて候
得ば、下々之可及難儀品は、御趣意に相背候間、右之心得
よろしく
を以、御倹約行届候様、器量一杯に存込、御為宜と存候儀
は、何ケ度も無遠慮申上候様可被致候。
此れを以て、幕府が真面目に倹約の政治を布くものと見るは、
未だ其の真相を看破したものではない。畢覚如何に幕府財政が
窮乏に陥り、その為めに経費節減、仕払繰延を実行するの余儀
なきに至つたかを、反証するものとして、始めて其の意義が分
明だ。
幕府は更らに同時に於て、新たに弐分判を鋳ることとした。即
ち真字弐分判だ。
大目付え
一 此度世上通用之ため、弐分判金、新規吹立被仰付候間、
右二歩判二つを以、金壱両之積り。尤銀銭とも、両替小判
壱歩判同様之割合に相心得、取交無滞可致通用候。
しばし
松平信明在職中にも、金銀座から、屡ば改貸の議を提出した。
然も信明は持重して之を許さず、且つ曰く、金銀を悪くして国
すく
用を済ふは、国家の恥辱だ。苛も官之を行はんと欲せば、瓦片
もち
でも通用せしむるを得可し。何んぞ改鋳するを須ひんやと。然
も彼逝きて水野忠成其政を執るに至り、改鋳の議は、乃ち行は
るゝに至つた。
文政元年五月、いよ\/弐分判を通用せしむることを令した。
大目付え
一 此度世上通用之ため吹立被仰付候、弐分判金之儀、来
月(六月)より通用可致候。尤先達相触候通、小判壱分判
え取交、無差別取引為致候條、通用差滞申間敷候事。
きず
一 小判金之儀、年久敷相成、自然と瑕金等多く、世上難
儀之趣相聞候付、追て及沙汰候迄は、五分以上之切れ金は
勿論、其以下之瑕金にても無差別小判弐歩判、弐朱判取交、
無代にて引替可遣候間、武家在町共、所持之ものは、来月
十日より後藤三石衛門役所を始、別紙名前之者方え早々差
出、引替可申候。尤五分以下之瑕金通用方においては、是
迄之通に候間、心得違致間敷候事。
一 弐歩判切貨之儀、壱歩判同様に相心得、不相当之儀致
間敷旨、両替屋どもへ申付候間、其旨可相心得候事。
本町一丁目 後藤三右衛門役所
駿河町 三井次郎右衛門
本革屋町 三谷三九郎
上槙町 泉屋吉次郎
室町三丁目 竹原屋文右衛門
金吹町 播磨屋新右衛門
堀留町一丁目 升屋源四郎
大伝馬町 殿村屋佐五平
此の如く弐歩判新貨は、世上に通用せしむることとなつた。
|
|