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文政七年の三月には又「引替弐朱判之儀は、焼弐朱判、並極印相分兼
候分共差出次第引替可 遣候條云々」「引替可 差出 弐朱判員数相知候
事に候間、貯置不 申、段々引替可 申候、若貯置不 引替 者相知候はば、
吟味之上、急度可 申付 候事」「金銀吹直に付、古金銀通用之儀、来酉
二月迄之内、只今迄之通、新金銀と一様に可 致 通用 候、其以後は、
古金銀停止たるべく候間、古金銀所持之者は、無 油断 早々引替可 申
候、尤御料は御代官、私領は領主地頭より申付、遠国に至るまで、不
残様に引替させ可 申候、若遠国並渡海等にて、引替方不都合之場所は、
御代官、領主、地頭にて御世話いたし、最寄引替所へ為 差出 候様可
致候」との布令も出て居るが、如何に慰諭し、如何に威嚇しても効力が
あきらか
無かつたといふ事は、次の布令で明に知れ、今度は少しく態度を変へて
誘惑的になつて居る所に一種の滑稽味が加はつて居る。即ち文政七年七
みちのり
月には「古金銀引替之儀、国々之内には、最寄引替所迄、道法相隔り候
わざ/\
場所も有 之、又は遠国より態々金銀座え持越、引替候者も有 之候処、
右体遠路之処、一度に金銀高多く差出候ては、道中持送之入用相懸候に
みはからひ いくたび
付、おのづから金銀高見計、幾度にも差出候様可 相成 候、古金銀通用
之儀、先追て相触れ候通、来酉二月迄にて、停止之事に候得ば、向後古
金銀差出候ものは住所より、金銀座並其最寄引替所へ道法五里余相隔、
金銀高一度に金五百両、銀は拾貫目以上差出候者へは、里数一里往返分
ふん
金百両に付、銀五分づゝ、銀壱貫目に付銀三分宛之割合を以、里数金銀
高に応じ、諸入用被 下候筈に候間、御料は御代官、私領は領主地頭に
て、右諸入用相願候者取調、江戸金座、銀座へ申立候様可 致候、若当
人又は其身寄を以て、直に金銀座へ申立度旨申候はゞ、其通相致候ても
不 苦候間、いづれにも厚く世話致し、古金銀所持のものは、早々為 引
替 候様可 致候。」とある。屹度申付くべしとか、別段取調に及ぶべし
とか、数が知れて居るとか、色々に威嚇してから已に五六年を経過した
あたか
当時に於て、今度は諸人用下され云々、宛も振上げて見せた鉄拳を開い
てのひら な いくばく
て掌で摩でる様な態度に変じたが、それが幾干の効力があつたかは更に
次の翌八酉の年十二月の布令で分る。即ち「古金銀通用之儀、当二月を
限り候様にと去三月相触候処、今以て古金銀引替残有 之候趣に候、遠
国等いまだ不行届候哉に付、古金銀引替之儀、当酉年七月を限り、不
残引替可 申候、尤遠国之分は去る閏八月相触候通、引替之金銀高、並
道法遠近に応じ、道中入用も被 下候事候得ば(中略)当酉年八月より
古金銀通用停止たるべく候間、無 油断 引替に差出可 申候、尤停止以
後通用いたし候者於有 之は急度可 申付 候、」とある。ところが此当
ど う
酉年七月には如何であつたか。即ち其八月の前月七月には又触が出て
いよ/\
「古金銀通用之儀、当八月より弥停止たるべく候間、無 油断 引替に
差出可 申、当二月相触候処、今以引替残有 之趣に付、猶又来戌年二
月迄、是迄之通、古金銀通用致し、三月より停止たるべく候云々」、
ところが其戌九年二月に来る亥年二月迄延期と触れ、尚ほ念入にも其
十二月には「当二月相触候通、来亥年二月より、弥々通用停止候間、停
止以後、堅く通用いたす間敷候事」「(前略)若停止以後古金銀通用致
候歟、又は古金銀貯置、不 引替 もの於 有 之は、吟味之上、急度可
申付 事」と触れるといふ有様、本来民心は便利に就くもの、即ち都合
が好くて利益さへあるならば令せずとも行はるる事、猶ほ水の低きに就
くが如きものある筈であるのに、其然らざる処に悪貨幣の性質が明瞭で
あるが、忠成は官権を笠に着て兎に角も之を強行した。
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徳富猪一郎
『近世日本国民史
文政天保時代』
その8
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