Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.11.19

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その27

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

四、悪貨幣の濫造 (6) 管理人註
   

          而かも之に因て贏ち得た利益は誰に帰したかといふに、彼れ忠成が文 政四年に勝手御用勤労を賞せられて一万石加増、将軍の恩寵愈よ加はり、                     なりなが 八年大川筋に御鷹狩の時を以て、家斉は水戸斉修侯の小梅ノ屋敷立寄に 托して、表面御通り抜けと称し、忠成の新築の別荘に臨まれた。実に此 方が主なので、彼は非常の光栄に浴したのであつた。更に此年勝手掛積             つかさど      ぬきんで 年の労、又金銀改鋳の事を掌り、特に忠勤を抽でた功に因るとて、鎧及     くらおほひ び葵紋の鞍覆を賜はつた。同十年にも同様の理由を以て賞賜あり、同十 二年に更に一万石の加増を受けた等の栄誉が続々有つたばかりで、一般 経済界は是が為に非常に撹乱され、諸式は次第に騰貴した。  諸物価の源は、米価と言ひなされるが、其米価は貨幣との関係を見る ならば、呼吸は実に微妙なものである。例えば宝永時代には宝字銀、元 禄銀、慶長銀が並び行はれたが、大阪の米価は宝字銀なら一石百二十匁 乃至百五十匁、即ち一升百二十匁(金、銀、銭、「銭は銅銭」の相場は                        おほよそ 時代に依て一定せぬけれども、寛永以後天保頃迄は大凡金一両に銀六十          たいびう 目、銭六貫文と見て大謬がなからうから、茲には此計算に依る。固より 大概を示す丈だ、委しくいへば時代の下る毎に銀、銭の価は低落して居 るので、天保の初頃には金一両に銀六十三四五匁だが、併し銭一貫文を      ふん 銀九匁三四分とすれば、大凡金一両は矢張り六貫目位となるが、其後は 更に銀七十匁、銭七貫匁を以て一両に換へる程にもなつて居る)から百 五十文したものが、元禄銀なら九十三匁乃至百十一匁、慶長銀なら七十 五匁乃至九十三匁迄の間であつた。更に又物価は貨幣の数量に関係して 定まる。是は昔から我国でも気附いて居た事で、三浦梅園も夙に之を論                      べいぞくふはく じ、「譬へばこゝに一島あり、土地人民足り、米粟布帛魚塩他島を仮ら                             ず、一切事足唯金銀のみ無からんに、民粟を以て器械庸作に易へて、金 銀の貴きを知らで立たざる事やあるべき、追々に銭一万を入れて他の用 を通ぜんに、一万の銭決して一島の用を弁ぜし、其初は島の諸用一万の                             銭とつり合をなし、米一石五百銭に当らば、其五百銭以て一奴を買ふべ し、又入れて十万に至る日は一石の米五千銭につり合ふべし、此時五百   わづか              の銭纔に数十日の人を雇ふに過ぎじ、然れば前の五百銭もてると後の五 千銭もてると数は一倍すれども、用は異る事なし云々」小は以て大に譬 ふべく、説き得て甚だ明瞭である。



徳富猪一郎
『近世日本国民史
文政天保時代』
その11


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その26/その28

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ