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ぶんじ
今例を徳川時代の米価と貨幣の数量とに引いて見るに、文字金銀時代
即ち元文元年から文政元年に至る八十三年間の貨幣流通高は二千七百七
十七万四千〇三十一両であつたが、元文二年から文政元年に至る八十二
年間の大阪の米価は一石最低三十五匁、最高百五十五匁一升直段三十五
文乃至百五十文、次に新文字金銀時代、即ち文政元年より天保二年に至
る十四年間の金銀貨幣流通高は四千六百五十七万四千六百五十両であつ
たが、流通貨幣は大に増加したけれども新田の開鑿あり、豊作も続いて
米産額も順当に増したから、大波瀾なく、大阪の米価は最低一石五十二
三匁より最高八十五匁、一升直段五十二三文乃至八十五文、それが保字
金銀時代即ち天保三年から嘉永の頃迄の貨幣流通高は五千二百四十六万
四千百四十二両で、それに対する大阪の米価は、天保四年より八年に至
る四ケ年間に於て一石最低七十三匁八から二百十六匁、一升直段が七十
三文、八から二百十六文といふ高直を示して居る。勿論此間には旱魃、
いた
洪水等の天災並び臻り、米産額の減少もあるけれども、決してそれのみ
でなく、此金銀貨改鋳に依つて幕府の内庫を富まし、為に通貨の時なら
ぬ膨張を招いたことが最大なる一因を為して居る。
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徳富猪一郎
『近世日本国民史
文政天保時代』
その11
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