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ぶんじ
今例を徳川時代の米価と貨幣の数量とに引いて見るに、文字金銀時代
をぐるま たか
因果は廻る小車で、物価が騰貴すれば幕府の支出は又嵩まつて来る、
しきり
一面頻に触を濫発して国民に節倹を説いても、身を以て率先する覚悟の
無い者の訓誨には誰が従はうぞ、幕府は依然として所謂大御所様時代の
ほしいまゝ かうけい
栄華を擅にして居るから、又も財計に窮して来る。其時天保三年に巧慧
なる忠成は、近来御勝手向御繰合宜しからざる御時節故とて、両度の加
増を差上度との内存を殊勝にも申出で、聴かれなかつたとて更に日光御
宮其外御修復に就て御手伝仰付けらるるか、又は上納金致したいと願出
で、二月に上納金の方だけを聞届けられ、賞賜あり、更に五月に葵紋附
の鞍鎧及び虎の皮の鞍覆を拝領した、彼の恩賞の盛なる、実に他の賢良
じじん そばだ ひんしゆく
故老の上に出で、時人目を側て、識者は窃に顰蹙したといふが、誠に左
や
もあるべきである。良民下にせて権臣上に肥ゆ、然るに何の功労ぞ、
たす そむ
何の恩賞ぞ、民の帰する所は天の右くる所である。民の去る所は天の左
じ ゝ
く所である。それ故に、古先哲王は皆市孳々として民を安んずるを以て
つとめ かみせいかん かな
務と為すといふに、今将軍は上聖鑒に副ひ奉り、天子の為に其赤子たる
生民撫育の大任を預り乍ら、其生民を欺瞞して一時を糊塗し、其生活を
迫害するの残忍を敢てす可きでない。而かも当時の幕府は之を敢てして
ねんぷ
自ら怨府と為るを悟らず、却て自己を怨府と為らしむるの陋策を取つた
者をば忠節を励んだものと見た。其愚や及ぶべからずでない乎。
しば/\
貨幣改鋳の姑息策は松平信明の職に居た頃から屡次金銀座の建議した
すく
所であつたけれども。信明は金銀を悪くして国用を済ふは国家の恥辱だ、
ぐわへん
苟も官が之を用ふるならば、瓦片と雖も世に行ふ事が出来るのだが、其
様な目的の為にする改鋳なら改鋳の必要を認めぬと論じ、且つ之を納る
れば必ず其間に一種の私曲を含み来ると予察もして居たので、此議の起
しりぞ
るや常に断々乎として之れを斥けたのであつたが、是が忠成に至つて遂
に実行されて一大禍根を為した。忠成の志を得た後とても幕閣に全然具
眼の士、廉直の人無き訳でなく、例へば老中阿部備中守正精の如きも慥
に其人と思はれたけれども、其勢力は到底忠成を制するに足らず、遂に
意見の衝突の為に不平を抱いて病に托し、文政六年に辞職すれば、若年
じゆんちう
寄堀田摂津守正敦の如きも亦純忠の人物たるを失はぬけれども、是も忠
成の下に圧迫されて志を行ふ事が出来ず、天保三年に至り、老年の故を
以て職を去つた。
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徳富猪一郎
『近世日本国民史
文政天保時代』
その11
巧慧
頭の回転が速
く鋭いこと
時人
同時代の人々
孳々
努力し励む
さま
怨府
人々のうらみ
の集まる所
純忠
私欲のない純
粋のまごころ、
誠忠
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