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天保四年四月から同七年の四月迄、約三年間大阪町奉行を勤めた矢部
それがし
駿河守の話にも、「某奉行在役中、度々燕室へ招き、密事をも相談し、
又過去をも問答する事鮮少ならず、言語容貌決して尋常の人にあらず」
とある所、前後皆符節を合はすが如くであるが、更に其話によると、駿
かながしら あぶ たまた
河守が甞て平八郎を招き会食した時、金頭魚を炙つて出したに、話が偶
ま憂国談に及んだので、平八郎は忠憤の余り情激して、怒髪冠を衝くと
もいふべき有様であつたから、駿河守が色々慰論したけれども、平八郎
いきどほり かう
の憤は益々亢じ、到頭金頭魚の頭から尾迄ガリガリと噛み砕いて、食つ
て仕舞つた。翌日、家宰某が駿河守を諌めて、「昨日の客は狂人だから、
ゆめ/\高貴の御方には近づくべきでない、此後は奥通りを御差止め遊
ばせ」と駿河守の為を思つていつたけれども、駿河守は汝等の知つた事
まじわり まつた
でないといつて之を斥け、始終交を全うしたといふ事である。
ニシテ
是等を思ふと、如何にも山陽の平八郎に対する評語の、「其心壮而身
ニシテ か
羸、才通而志介」とある短い句に、千古の断案として易ふべからざる力
か
が有ると信ずる。生理的に観察するものは、カーライルの彼の痛刺人の
えぐ はいるゐ がいい
肺腑を るが如き批評も、ニーチエの彼の払戻好んで崖異を樹つるが如
き思想も、皆其胃病や神経病の所産であると説くが如く、体質と思想と
は、或る部分迄動かすべからざる必然的の約束を有するから、平八郎の
性格並に其行動の観察にも、是は見遁すべからざる要点の一つであらう。
病弱者の神経は精巧なる験温器であつて、社会の病弊は鋭敏にそれに反
応を与へ、一高一低するに相違ないが、然らば其精巧なる験温器たる病
弱者の神経の動き様を見る事に於て、吾人は其処に其社会の病弊を観察
たいり
する、大なる便宜を得る事と信ずる。予は群籍堆裡に瞑目沈思して寒岩
枯木の如くに黙坐せる平八郎の胸天に、時勢の如何なる妖雲が常に徂徠
おもむ
しつゝあつたかを徐ろに想察しては、飽迄澄み果つる深潭の底に、秋冷
かなる林間の星影の淋しく見出さる如き明徹さを痛感せざるを得ぬ。
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河村与一郎
『警世矯俗
大塩平八郎伝』
その67
鮮少
非常に少ない
こと
桜庭経緯
「矢部駿州と
大塩平八郎」
羸
(みつる)
やつれる
払戻
(背戻か)
そむくこと
群籍
多くの書籍
徂徠
行き来する
こと
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