Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.12.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その42

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

六、吏風の頽廃 (2) 管理人註
   

               いにしへ  平八郎の言へる如く、如何にも古よりの流弊には相違なからうが、 「通例才智有之人」から「実心天下之事を不思勝ち成るものに御座候 云々」、に至る一節は、実に当時の吏情の活写であらう。之を水野忠成 既に卒して、水野忠邦の代つて本丸老中となつて居た時代の、天保七年 十二月の大目付への達示に対照すると、当時の役人気質が一層面白く浮 いて出る。即ち「近来之風儀諸事当り障り無之候を専と致し、相互の 突合計に心も用ひ候より、自然役前之事おろそかに成行候、銘々役前の           いとわず 儀においては、其身を不厭、御為専一に力を尽し候事本意にて、既に 誓詞前文之処を常に相守り候は、申迄も無之儀に候條、万事踏止可 精勤事に候」とあるのがそれだ。  「幕府の士人は厚薄多少は有るけれども、尽く常禄が有るから、分に 安んじ倹を守るならば、官を罷めても飢渇の憂は無いのだが、一資半給 と雖も貪恋すること甚しく、有らずも哉の閑な地位、勢力も権力も何も                              のど 無い官職に居つても、急流勇退などといふ事はかけても思はず、喉を ゼー/\鳴らし乍ら、あの梅林阪、即ち平川門内に在つて、奥向勤めの 者の通行道なのだが、それをウンヤラヤツと登つて役所に出仕し、御番 を勤める。其様にしてまで何の為なのかといへば、唯千俵とか五百俵と かいふ役米が欲しく、口腹の慾、妻児の愛に累はされて斯様な恥も外聞                 こめぐら むし も構はぬ醜態を演じ、国家の大切な米廩の蠧となるといふのは扨々苦々 しい事だ」と栗本匏菴は記して居るが、先づ斯ういふ一体の利己本位の 役人根性では、賄賂の公行は当然の事で、水野忠成の全盛時代には、其 家来の土方縫之介といふ虎の威を仮る狐が居り、此者の手を経なければ 忠成に旨く取入り憎いといふ程になつて居つた。此土方の馴染芸者に花 といふ美人が居つたが一寸字を書くといふ風評がある。そこで土方の歓 心を得やうと思ふ諸藩の留守居役等は一時競つて此花の書いた扇面など もてあそ                        たいせい を翫んだといふ如き、他愛も無い話もあつた程だ、されば大勢の然らし むる所、賢才も亦時風を達観して、目的の為には手段を選ばず、所謂逆        かんがへ   たいご        はうそ 取順守といつた考で、大悟の上から苞苴の下に栄達を謀る程である。即 ち前に話した矢部駿州の如きも自ら、「川路三左衛門や岡本忠次郎など いふ人達は元来勘定所から出身した。勘定所は人々才力を以て出身する                     それがし 場所であるから、両人共其跡は立派である。某は元来三百俵の御番士か                             あざけり ら斯く迄立身したのは、才力でなく、皆賄賂の御蔭で、大方の嘲もあら う」と東湖に語つて居るので、東湖はさすがに取飾なく英雄の気象があ         やが ると褒めて居る。軅て東湖はそれに答へて自己の利己心から賄賂を行ふ       てんたん ものあれば、恬淡無為では終身頭が出ず、我志を行ふ事が出来ぬからと                           たまた て、国家の為を思ふて賄賂を行ふものである。此二つは跡偶ま同うして、                          に こ 志は異なれりといつたので、矢部は我意を得たり顔に莞爾ついたといふ 話である。




幸田成友
『大塩平八郎』
 その181


























































大悟
はっきりと理解
すること


出身
出世すること










恬淡
欲が無く、物
事に執着しな
いこと


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その41/その43

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