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此辺で察すると、駿州は識見高邁であつて、而かも局量偏狭ならず、
とどん あまり
平八郎位の者を吐呑して余有る程の游泳の天地を十分胸宇に持つて居る
様であるが、而かも其奥底には、敢然独往の豪気を蔵めて居たもので、
其心跡は頗る平八郎に似て居る所であつた、是れ彼が大阪町奉行当時に
能く老功の平八郎を招いて時事を諮詢し、両心相傾けて大に益を得た所
以であらうか。駿州は平八郎と同齢の三上侯遠藤但馬守胤統より五六歳
おほよ
の年少であつたといふから、彼の大阪留任は大凡そ其三十五六歳から三
十七八歳迄の間であつたらう。町奉行とは言ひ乍ら、平八郎より見れば
かさ
年若であり、又学問も足らねば、持前の気質とて頗る嵩になつて論陣を
張つたであらうが、駿州には家宰の諫言に対して、汝等の知る所に非ず
と一言にして斥け得る丈の十分の理解を持つて居たのであつた。
駿州が初めて番騎士と為つた時には、故参者が新参者を凌ぎ、婢僕よ
りも烈しくこき使ふといふ悪風があり、或る宿直の晩、甚寒いといふの
あご
で、老輩共が駿州に頤で命じて熱粥を作らせたが、此熱粥は、銘々の弁
うや/\
当の残飯を取集めて、一所に煮、其熱い所を椀に盛り、分けて恭しく進
めるといふ習慣になつて居たから、極めて賤陋な事であるけれども、老
輩共は平気で之を受けて意に介せぬのみか、少しく気に食はぬ事がある
とて
と、人の前でも無遠慮に罵る、腹に虫のある者なら迚も堪へ得られる事
でない。駿州は其命を受くるや深く心に憤り、する様こそあれと窃に粥
とうがい たひら か すゝ
の中に灯葢の種油を傾け入れ、平に撹き廻して之を侑めた。味ははぬ前
からか
の彼等は知らぬが仏、好い心地になつて、半ば揶揄ひがてら、「どりや
駿州の腕前を見やうかい」などと言ひつゝ、箸を執つたが、一箸試みた
すぐ
が最後、直にペツ/\と吐き出すあり、遺憾なく一口丈は飲み下して嘔
気を催し、生唾を吐くもあれば、ゲロ/\と有るといふ騒ぎ、あはたゞ
なじ
しく駿州を呼んで、故を詰ると、駿州は落着き払つて、百事拙劣で皆様
には及びませぬといつた計り、衆口等しく悪口雑言、侮辱を一人の駿州
あび
に浴せるけれども、緘黙して争はず、翌朝家に帰るや否や、早速番頭某
つぶ おもむ
氏の屋敷に赴き、備さに前夜の始末を語り、徐ろに隊風の悪い点を縷述
そし もと
して、故参共を誹り、兎に角彼等の意に忤つた責を引いて辞職し、再び
仕へぬと言ひ切つたから、番頭は已むなく一旦は其辞任を聞届け、それ
から頑愚の老輩数人を罷めた上で、改めて上請し、駿州を推挙して徒士
頭にした。是が抑も駿州の人に知られる初。又立身の初幕であつたとい
ふ事だ。
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胸宇
胸のうち
独往
自分の信じる
道をひとすじ
に進むこと
実際は
矢部駿河守
(1789-1842)
大塩平八郎
(1793-1837)
で矢部が年長
川崎紫山
「矢部駿州」
その4
賤陋
卑しくて品が
ないこと
灯葢
灯火をともす
油皿を置く台、
または油皿
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