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か
夫の天保八年に、遂に平八郎をして其癇癪玉を破裂せしめた跡部山城
せつせつ
守良弼の如きは、其俗吏の絶好典型であつたに相違ない。其他の屑屑た
しよと
る与力同心、平八郎の所謂「府吏胥徒」、「未だ嘗て学問有らざる」徒
し が
輩は固より、深く嘴牙に掛くるに足らぬ。即ち天保七年四月に跡部山城
守の大阪町奉行に任ぜられて矢部駿州に代るや、城州が駿州に向つて、
町奉行の故事並に心得となるべき事どもを問うたから、駿州は型の如く
申聞かせた後、尚ほ念の為に言ふには、与力の隠居に平八郎なるものが
あるが、非常の人物だけれども、悍馬の如くで、其気を激せぬ様にすれ
かぎょ
ば、御用に足るけれども、若し奉行の威光で之を駕御せやうとなどする
かしこま
なら危険だと教へた所、其時には跡部も唯左様ですかと畏つて居たけれ
ども、退いて人に語つて曰ふには、駿河守は人物と聞いて居たに、会つ
て見ると相違して居る、大任の心得振を問ふたのに対して、一人の与力
の隠居を御せるの御せぬのと心配するとは何事かといつたといふが、後
けつてい
にまんまと駿州をして先見の名を為さしめ、彼は悍馬の齧に堪へずし
て一大失敗を演じたのであつた。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その86
矢部駿河守は
天保4年7月より
同7年9月まで
大坂西町奉行
(後任堀伊賀守)、
跡部山城守は
天保7年4月より
同10年9月まで
大坂東町奉行
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