前にも話た如く、与力の禄米は実収八十石であるけれども、其実生活
はばきゝ
は仲々有福なもので、仲にも幅利の称あるものになると二千石取位の生
しる ほうそ
活をしたといふ事だが、是は何をか物語る。言はでも著き当時の苞苴の
さむらひ
流行が明知されるのである。本来大阪には別に士といふものなく、天満
組六十騎の与力、百人の同心(東西町奉行には各各与力三十人、同心五
十人従属する制なる故に)が唯一の武士で階級として市民の眼に映じて
居たのであるが、唯それのみではなく、城代と町奉行との職掌は自ら異
ぢやう
なり、前者は単に大阪城の守備に任ずる丈の事だから、其下に属する定
ばん
番、諸奉行より与力同心に至る大小吏は市政に何等関係なく、市井は専
あつかひ
ら町奉行の扱に属して居た。けれども其町奉行は交迭頻々、僅か文政三
年から天保七年迄の十七年位の間にも、先づ荒尾但馬守成章から始めて、
内藤隼人正矩、高井山城守実徳、新見伊賀守正路、曾根内匠次孝、久世
伊勢守広正、矢部駿河守定謙、戸塚備前守忠栄、大久保讃岐守忠実、跡
部山城守良弼、堀伊賀守利堅等に至る多数が入替つて勤めて居るので、
大抵は二三年で転勤する。高井山城守の十一年も勤めたのは、素より異
数の方であつた。斯ういふ訳で、大阪町奉行は幕府の役人の腰掛場所、
更に言へば彼等が為の登龍門で、此処を旨く勤め果せれば、江戸に帰つ
て町奉行とか勘定奉行とかいふものに栄進出来る。それ故何でも大過無
く、江戸への御覚え目出度からん様にとのみ心掛けたものが多く、市政
には左迄の注意を払はず、又事実に於て十分精通し得るに至らぬ間に転
た
任になる始末であつたから、市政は殆ど挙げて与力等の吏務に長けた者
の手に委ねられる有様であつた。大阪の市政は各町毎に一人宛自地の町
人(地面を有する町人)及び屋守(自己の家屋を有する町人)が投票に
依つて選挙する年寄なるものがあり、更にその上に総年寄といふものが
十幾軒か居つて、其職を世襲して他業を営まず、月番を以て総会所に詰
おの/\
め、北組、天満組、南組の三郷に分れて各組内を総督する、総年寄は官
はう
より宅地を賜はり、方三四十間の家屋に居り、長屋門を搆へ、玄関あり、
ほ
粗ぼ武家屋敷に似、出庁の時には肩衣袴を着用して一刀を帯する等、頗
る威張つた者だが、与力同心等は平素是等の者と接触して市中の行政、
司法一切の事務を管掌するので、其権力は自ら絶大なるものがある。
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