Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.12.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その48

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

七、与力としての平八郎 (3) 管理人註
   

 前にも話た如く、与力の禄米は実収八十石であるけれども、其実生活              はばきゝ は仲々有福なもので、仲にも幅利の称あるものになると二千石取位の生                         しる       ほうそ 活をしたといふ事だが、是は何をか物語る。言はでも著き当時の苞苴の                      さむらひ 流行が明知されるのである。本来大阪には別に士といふものなく、天満 組六十騎の与力、百人の同心(東西町奉行には各各与力三十人、同心五 十人従属する制なる故に)が唯一の武士で階級として市民の眼に映じて 居たのであるが、唯それのみではなく、城代と町奉行との職掌は自ら異                                ぢやう なり、前者は単に大阪城の守備に任ずる丈の事だから、其下に属する定 ばん 番、諸奉行より与力同心に至る大小吏は市政に何等関係なく、市井は専      あつかひ ら町奉行の扱に属して居た。けれども其町奉行は交迭頻々、僅か文政三 年から天保七年迄の十七年位の間にも、先づ荒尾但馬守成章から始めて、 内藤隼人正矩、高井山城守実徳、新見伊賀守正路、曾根内匠次孝、久世 伊勢守広正、矢部駿河守定謙、戸塚備前守忠栄、大久保讃岐守忠実、跡 部山城守良弼、堀伊賀守利堅等に至る多数が入替つて勤めて居るので、 大抵は二三年で転勤する。高井山城守の十一年も勤めたのは、素より異 数の方であつた。斯ういふ訳で、大阪町奉行は幕府の役人の腰掛場所、 更に言へば彼等が為の登龍門で、此処を旨く勤め果せれば、江戸に帰つ て町奉行とか勘定奉行とかいふものに栄進出来る。それ故何でも大過無 く、江戸への御覚え目出度からん様にとのみ心掛けたものが多く、市政 には左迄の注意を払はず、又事実に於て十分精通し得るに至らぬ間に転                              任になる始末であつたから、市政は殆ど挙げて与力等の吏務に長けた者 の手に委ねられる有様であつた。大阪の市政は各町毎に一人宛自地の町 人(地面を有する町人)及び屋守(自己の家屋を有する町人)が投票に 依つて選挙する年寄なるものがあり、更にその上に総年寄といふものが 十幾軒か居つて、其職を世襲して他業を営まず、月番を以て総会所に詰                   おの/\ め、北組、天満組、南組の三郷に分れて各組内を総督する、総年寄は官          はう より宅地を賜はり、方三四十間の家屋に居り、長屋門を搆へ、玄関あり、 粗ぼ武家屋敷に似、出庁の時には肩衣袴を着用して一刀を帯する等、頗 る威張つた者だが、与力同心等は平素是等の者と接触して市中の行政、 司法一切の事務を管掌するので、其権力は自ら絶大なるものがある。


幸田成友
『江戸と大阪』
その27


















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