Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.12.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その47

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

七、与力としての平八郎 (2) 管理人註
   

 高井山城守実徳の大阪町奉行となつたのは、文政三年十一月だから、 それより四五ケ月ばかり後の話で、文政四年四月頃、平八郎廿八歳の時                               の事だが、阪本鉉之助が柴田勘兵衛に連れられ、初めて平八郎を訪うた 時に、平八郎は、座定まり寒喧の挨拶も済むか済まぬに、能く御出下さ れた。ともすると拙者も切腹して皆様に御目に掛れなかつたかも知れぬ と思つたら、先づ無事に落着して切腹にも及ばず、御対面が出来て重畳                          ど う であるといふ言葉。二人は少からず驚いて、それは又如何した訳かと仔 細を問うたら、平八郎は、さらば茲に一條の物語が御座る。天満の町人                               某が、貸金出入で訴へられ、それに定法があるので、其通日限を定めて 返済を命ぜられたけれども、彼は近年不仕合せで借財段々に嵩み、今度 きりきん 切金を命ぜられても、一口済めば又一口といふ風に際限なく、御上へ御                           しんだいかぎり 手数をのみ掛けて所詮全額償却の見込立たず、それ故何卒身代限を仰付 られたいと申出た。けれども此某の先代は御上に御用金迄差上げた事も         む げ あるのだから、無下に身代限を申渡すも如何といふので、一応江戸に伺 を立てた所が、水野出羽守(忠成)の御差図で御用金差上げた者は他に まだ沢山有る事だから、不便乍ら一人に丈特別の取扱はならぬ。当人申 出の通り身代限を申渡せとの御下知であつた。それを承ると拙者は組違 であるけれども、早速西奉行内藤隼人正殿へ参り、強いて目通りを許さ     かしら れて、私頭は高井殿は近頃御赴任故、未だ御気質も承知仕らず、御前は 前年当地御目付御勤にもあり、且つ御継母に御孝心の由にも承はり居る から、御上の御為筋を存じて推参致しました。今度の一條、江戸表の御 下知を背くは不敬とは申せ、某の先代が公儀へ御用金を差出した精神は、 一は家の為、子孫の為にもならうといふ量見もあつての事でありますの に、如何に当人の願とは申せ、身代限を申渡し、家名断絶とあつては、 全然某先代の思惑に外れて居る事でありますから、今後当地へ如何に御 用金仰付けられの事があつても、当地の豪商共は難渋を申立て、蜂を払 ふ様に嫌ひませう。大阪は公辺の金箱で御座りまする。若しも御前御在 勤中に、又も御用金の御沙汰もありましたならば、如何様にして市民に                   かみ 御説きになりまするか、私は与力風情、上の御容貌を拝し得ぬ下賤の者                            かみ 乍ら、御為筋には一命をも棄つる覚悟、況してや御前は、数年上の御側               ひとしお に在らせられた事であるから、一入公儀御為を御大切に思召されるで有 りませう故、何卒篤と御勘弁ありたい。万一にも上の御下知に背いたと         そとさま              とが の御咎が参らば、外様には御迷惑相掛けず、拙者一人科を請けて、即座 に切腹致しますると言つた所が、隼人正殿もはら/\と落涙に及ばれ、 其方が頭を差措いて此方へ参つた事は内聞に致し、其方より山城守殿へ 申聞けよ、山城守の方から拙者に相談があるならば、其節は拙者屹度宜 しき様に取計う、先づ今日の所は身代限申渡しの義を延引せよとの御挨 拶あり、それより再応江戸伺の事に決し、老輩両三人で昨今ヒシと取調        いちぶしじう 中で御座ると、一伍一什を委しく語り聴かせたといふ。誠に平八郎の面 目躍如たるもので、而して直情径行の彼の唇頭からは、容易に確信の籠                       ほとばし つた「即座に切腹致しまする」といふ様な口上が迸り、是が為に常に 「危き事相犯し候」と自ら述べ居る様に、進んで危地をも造り易かつた と想像される。




坂本鉉之助
「咬菜秘記」
その2

幸田成友
『大塩平八郎』
その21













切金
債務を分割し
て弁済する手
続き















大阪西町奉行
内藤隼人正
の在任は
文政3〜文政12






































一伍一什
(いちごいちじゅう)
始めから終わりまで


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