此事件の主人公なるものは、当時死んだ後でもあつたけれども、出生
おおはしより
地不明の水野軍記といふ怪物であつた。略歴を大端折に端折るなら、和
漢の軍談に通じ、仏学易道にも精しく、書も巧に、風采も立派で、顔色
骨柄凡庸ならず、一方の軍将にもなさまほしき程の才智器量有る者に相
違無いと言はれた男、暗室に死人の姿を見せる。鉢の水を呪文の力で二
尺も跳び上らすとか、壁に身体を着けたまゝ刀を抜くとか、紙屑籠を一
る
縷の髪毛で吊して見せるとか、六畳の室に二間余の長槍を抜くとか、二
階床下一斉に震動さすとかいふ種々の奇蹟を行ひ、是は余技也とて他人
あ る
には伝へず、常に後生大事に隠して持ち歩行いたものは、天帝如来とい
あやまり
ひ、小供を抱いて立てる女の姿で、右に十字架の誤でないかといはれる
剣の描かれた画像があつて、之を信仰して吉凶禍福を予言し、加持祈祷
の法を行ひ、センスマルハライソ(センスは耶蘇、マルはマリヤ、ハラ
イソは極楽で、耶蘇と聖母とを崇信して極楽に至る義なりといふ)の呪
しよちう
文を二六時中無言に唱へ、病者等あれば紙人形を作り、毎夜子(夜の十
せいすい
二時)より丑(午前二時)の間鉢に清水を汲み入れ、それを人形に振り
掛けて、一心に天帝如来を念ずれば、終に病気平癒し、先方より礼銀を
持来る。唯紙人形に対して天帝如来を念ずる丈でも、妙に金品が寄つて
来るといひ、斯くて豊田貢に三十日間浴水、不動心等の修行をさせた後
に、それ等の秘法を許した。其際に是は御厳禁の切支丹宗門の事である
えきせん おろ
から易占、稲荷神下しに托して行ふべく、之を父母親戚にも語つてはな
らぬ、万一露顕に及び、厳科に就くとも、決して師名や伝来の次第を白
状してはならぬ、其身一人御仕置になるのを栄華の上の栄華と思ふべし
といつて堅い誓約をさせた。天帝如来の画像拝見を望むものには金を取
り、其上血を其画像の上に注ぎ掛けさす。之を見る事を許されたものは、
右の貢、貢の弟子きぬの外に高見屋平蔵、伊良子屋桂蔵の二人丈で、貢
ときぬとは右の中指の血を取つて、平蔵は左の五本の指の爪際の血を取
つて、共に教の如く画像の胸に注ぎ掛け、桂蔵は誓文に血判を推して出
したといふ。彼は此以外に何等基督、十字架、懺悔、洗礼、天堂、地獄
等を説いた事なく、且つ少しも宗教家らしい身持もなければ、同じ信者
くだん
なるワサといふ女も、件の天帝如来を拝むことの出来なかつたので、そ
わざ/\
れが見たさに態々長崎迄往つて踏絵を見て来たといふからには、敬虔な
る基督信者と思はれぬとて、此疑獄をば御厳禁の耶蘇教を信じたからと
いふ目安で裁判したのは、当を得ふとの説もある程だ、けれども是は切
支丹信者といふよりも切支丹の秘法信者といふを適当とすべく、軍記と
ても邪淫を禁ずる事を説いて居るけれど、それは峯入りする行者が六根
清浄の為に其前幾日間は女人禁制を実行するといふ如き類で、秘法厳修
の太切な期間だけの事であつたらう。現に彼は自分の正妻ソヘの外に、
トモといふ下婢に蒔次郎といふ子を生ませても居るのである。
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