Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.12.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その53

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

八 所謂三大功績 (3) 管理人註
   

 九州には隠れ切支丹宗徒多く、中にも長崎附近の浦上村の如きは有名 な処で、厳法の下にも隠れて聖像を祭り、事発覚して縛に就いたもの千 人余りに上り、脅して転宗を迫られても、妙齢の女子すら一死を甘んじ て之に応ぜなかつたといふ様な話が、近く明治の御維新の際にも伝へら れ、其為に困難な外交問題をさへ惹起して居る。出生地不明とは言ひ乍 ら、軍記の九州者なることだけは確なものゝ如く、而かも早くから長崎 を熟知して居る様でもあるから、何等か其辺の旧教徒の有する迷信を受                こと け継いだものかとも想像される。特に支那に布教した耶蘇教の宣教師マ テオ、リツチーの話を平蔵にしたといふ事でもあるから。如何に変形し て居るにしても、其伝統の切支丹宗門である事丈は否定出来まい。彼は 寛政七年に京都の祇園新地の借馬場で初めて知恩院古門前町、三村城之 助事槌屋少弐と知己になり、其世話で二條家の祐筆頭となり、豪放の為 に暇が出で、文化十一年二月に閑院宮家に住み込んだが、此処も遣ひ込 みか何ぞで同十四年十二月に駈け出し、召捕られて詮議を受け、翌文政        いとま 元年二月、永の暇となり、天帝如来の画像の外は家財諸式残らず没収さ れた。そこで四月に不明門通松原下ル町、中村屋新太郎の借家に住んだ が、其七月に大阪の松屋次兵衛、高見屋平蔵を便つて一旦大阪に下り、 九月に又京都に舞戻り、同三年四月に妻子を伴ひて大阪に来り、平蔵に 其世話を頼んで自分一人長崎に往つたが、暫く音信不通、妻子は何時迄                   また も平蔵の世話になるのを気の毒に思ひ、復京都へ帰つて、鹿ノ子職をし て細々と生活して居る処へ、同五年に軍記は長崎より帰つて、妻子と再 び同棲し、妻は六年に死し、軍記は其翌七年十二月に病没したといふ。




幸田成友
『大塩平八郎』
その37


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その52/その54

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