九州には隠れ切支丹宗徒多く、中にも長崎附近の浦上村の如きは有名
な処で、厳法の下にも隠れて聖像を祭り、事発覚して縛に就いたもの千
人余りに上り、脅して転宗を迫られても、妙齢の女子すら一死を甘んじ
て之に応ぜなかつたといふ様な話が、近く明治の御維新の際にも伝へら
れ、其為に困難な外交問題をさへ惹起して居る。出生地不明とは言ひ乍
ら、軍記の九州者なることだけは確なものゝ如く、而かも早くから長崎
を熟知して居る様でもあるから、何等か其辺の旧教徒の有する迷信を受
こと
け継いだものかとも想像される。特に支那に布教した耶蘇教の宣教師マ
テオ、リツチーの話を平蔵にしたといふ事でもあるから。如何に変形し
て居るにしても、其伝統の切支丹宗門である事丈は否定出来まい。彼は
寛政七年に京都の祇園新地の借馬場で初めて知恩院古門前町、三村城之
助事槌屋少弐と知己になり、其世話で二條家の祐筆頭となり、豪放の為
に暇が出で、文化十一年二月に閑院宮家に住み込んだが、此処も遣ひ込
みか何ぞで同十四年十二月に駈け出し、召捕られて詮議を受け、翌文政
いとま
元年二月、永の暇となり、天帝如来の画像の外は家財諸式残らず没収さ
れた。そこで四月に不明門通松原下ル町、中村屋新太郎の借家に住んだ
が、其七月に大阪の松屋次兵衛、高見屋平蔵を便つて一旦大阪に下り、
九月に又京都に舞戻り、同三年四月に妻子を伴ひて大阪に来り、平蔵に
其世話を頼んで自分一人長崎に往つたが、暫く音信不通、妻子は何時迄
また
も平蔵の世話になるのを気の毒に思ひ、復京都へ帰つて、鹿ノ子職をし
て細々と生活して居る処へ、同五年に軍記は長崎より帰つて、妻子と再
び同棲し、妻は六年に死し、軍記は其翌七年十二月に病没したといふ。
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