Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.12.19

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その54

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

八 所謂三大功績 (4) 管理人註
   

 豊田貢は越中の生れで、二歳の時父母に従つて江州才院村に移り、十 二歳の時に諸所に下女奉公に住込み、二十四五歳の時に二條新地明石屋 抱への遊女となり、尾上と称へ、其後縁有つて土御門家配下の陰陽師斎 藤伊織の妻となつたが、文化七年に伊織に棄てられ、其後独身生活をし たもので、此七年の冬、新橋縄手の茶屋糸屋ワサ方に約六十日ばかり同 居して居る間に、ワサと兼て懇意な右の軍記に会つて秘法を受け、それ より八阪上ル町に家を持つて易占、稲荷神下しの看板を掲げ、邸内の稲 荷神社を豊国大明神と称して、提灯にも大きく同じ文字を書き、紋所に は瓢箪を用ひた。きぬは摂州伊丹新町の生れで幼年に父母に別れ、十六                       ぬ しや 歳の時京都に往て、諸所に下女奉公をし、七條塗師屋町京屋喜兵衛の妻 となつたが、三十四歳の時、喜兵衛に死に別れて寡婦となり、それより 浴水、不動心等の修行を二年やつて貢より秘法を授かり、天満龍田町播 磨屋藤蔵方に同居し、貢と同じ様に稲荷明神を祭り、信者を誘ひ寄せて        きやうだい 居た。此キヌと姉妹の約を結んだ女にサノといふ者があつて、西成郡川 崎村憲法屋与兵衛の借屋住み、京屋新助の母であるが、是も亦非常の逆 境に育つたもの、一歳にして父を喪ひ、七歳にして母を喪ひ、十六歳に して祖父母を喪ひ、三十四歳にして夫をも喪つて、其後寡婦生活を送り 続けたもの、浴水、不動心の修業を七年続けて、秘法をキヌから受けた ので、是が倅の新助、及び同村憲法屋与七の女房八重、堂島新地裏町の 伊勢屋勘蔵、並に同人女房トキを手先に遣ひ、文政八九年、堂島辺へ京 都から宮方の御隠居が見え、加持祈祷が巧で吉凶禍福を予言して百発百 中だ、信仰すれば家運も栄えるといふ様な触れ込みで、自ら其所謂宮方        すま の御隠居となり澄して居たが、是が抑も一大疑獄の端を開いたので、余 りに評判が高くなつたものだから、町奉行所でも段々に手を入れた。其 掛与力が即ち大塩平八郎と瀬田藤四郎の両人で、探つて見ると立派な詐                               じゆろう 欺と知れたから、早速サノ親子及び八重、勘蔵、トキ等を召捕り、入牢 させて詰問に及ぶと、家主与兵衛を始め。被害者合計十九名、衣類金品 一切詐取した高を銭に換算すれば、七拾弐貫目余、即ち約昔の金で千二 百両、唯今にしたなら二万四千円ばかりのもので、其詐欺の手段は、今 度京都の宮方の御隠居が稲荷明神信仰の余り、加持祈祷によつて病気其 他難渋の者を救はれるから、修法の資財として金銀銭、左も無くば衣類 でも構はぬから納めよ、すれば家業が繁昌するといふので、時には稲荷 様から賜はる利銀などといひ、間に少しばかり割戻して呉れる事もある といふ方法であつた。




幸田成友
『大塩平八郎』
その39























幸田成友
『大塩平八郎』
その31


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その53/その55

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ