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即ち方法としては頗る幼稚なものであつたが、召捕つて吟味に及んで
ふけん
見ると、慧眼の平八郎は、是は決して尋常一様の巫覡者流ではなく、確
たんや
に特殊の信仰に鍛冶された太い魂の在る事を看破し、斯くして敏活な活
つる/゛\
動を開始し、蔓々の有らん限を手繰り尽して瓜の所在を残らず尋ね出し、
かつ
キヌより貢、貢よりワサ、ワサは已に死後であつたから、曾て其養女で
あつたイト、トキの両女を召捕る。それから軍記を知り、軍記は死後で
あつたから、遺子蒔次郎、蒔次郎の亡実母の父紅葉屋甚兵衛、其外、軍
記の葬式に立合うたもの一同を召捕り、遂に軍記とは何等の関係無き堂
島船大工町藤田顕蔵が、禁制耶蘇目録中の書籍を持てるのみかは、耶蘇
教に関する自著の燃犀録稿を迄所持し居る事を発見して、吟味を遂げ、
文政十一年十一月、是は評定所の議に移り、其十二月五日に大阪町奉行
高井山城守から一同に仕置を申渡あり、貢、キヌ、サノ、桂蔵、平蔵、
顕蔵は三郷町中引廻の上磔となり、此中サノ、キヌ、桂蔵、顕蔵、四名
のぼ
は病死故、塩詰の死骸を磔柱に上せ、新助、八重、勘蔵は吟味中病死、
トキは死罪、其他、或は牢舎、或は手錠五十日、庄屋、年寄は役儀取放
しな
の上、過料等、以下皆等によつて差あり、此一件は落着した。
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巫覡
(ふげき)
神に仕えて、
祈祷や神おろ
しをする人
幸田成友
『大塩平八郎』
その48
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