Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.12.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その58

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

八 所謂三大功績 (8) 管理人註
   

 平八郎は、已に国禁の邪教徒掃蕩に於て頽俗刷新の第一烽火を挙げ、 貪吏汚吏の一網打尽に於て第二烽火を挙げたが、更に悪僧処分に於て第 三烽火を挙げた。是は天保元年三月に起つた出来事で、其所謂三大功績 の最後の一つである。本来邪宗門取締の必要上、徳川氏の政略で仏教を 保護し、五人組より毎年三月迄宗門帳を町会所へ出させ、町会所では之 を纏めて家持借家宗旨人別帳なる者を作る。大阪では此基礎になるべき 銘々の家より届出る宗旨手形なるものがあつて、各寺院から其檀家に与           う ら ぼ ん ゑ へる事になつて居た。盂蘭盆会には坊主が棚経を読み廻つて仏壇覗きを    とむらひ する。喪事があれば、坊主が必ず御髪剃をして、それから棺の葢を釘で 締めさせる。斯うして日本全国一人と雖も仏教徒ならざるなきに至り、 世俗的勢力からいへば、凡そ此時代位仏教の盛大な事はなかつたけれど も、是では全然伽藍仏教、葬式仏教、今一つ極端に言へば、墓番仏教と いふべく、仏教の使命は決して此様な処に在るべきではないのだ。  昔より僧侶を方外の身と称し、犯罪人も寺院に入れば国法の力で容易 に搦め取る訳にはいかぬといふ程に、特種の待遇をして来たものだが、                           いわれ 言ふ迄も無く、是は僧侶の濫行をも放任するといふ如き、所謂なき優遇 の意味から出たものでなく、仏法は仏は覚者也、過現未の三世を通観し                         しとし て、人の精神の上に働くもの、世法は政は斉也、民を斉うするなりで現 世の統治だけに働くもの、一世と三世、物質と精神との差別あり、従つ て世法は低く狭く俗界に属し、仏法は高く広く霊界に属する。低く狭き 者が、高く広き者を束縛するは、理に於て許さざる所あり、而かも亦霊 界に働いて、真に其覚者たるものである以上は、無明煩悩の闇黒裡に蠢 動する凡夫の如き束縛の不必要なるべき訳があるので、自然政治の上に も寛厳の差が立ち、特種の待遇も有つたものであらう。現に徳川時代に は寺院には半ば自治が行はれて居る有様、各宗各派に本山、本寺があつ て、末院、末寺を統率し、宗内の事に皆其手で其宗の規定先例に照して 処置し、幕府の触も寺院の間に触頭なるものがあつて、それより各寺院 に達せられる事になつて居たので、町奉行の統治の手も、直接には彼等 の頭上に到らぬ。斯うした次第故、彼等にして自己に対する待遇の根本 精神が本当に分り居るならば、自儘どころか責任は一層重く、当然自ら 勉めて心鏡を払拭し、塵埃を引かざるべきである。数多き其宗派中には、 勿論、肉食妻帯厳禁の者と、之を許すものとの二つあるけれども、絶対 的禁慾主義も彼等方外の身に取つては極めて重大の意義あり、物慾の断 ち難きを、堅固な道心を以て強いて断つて、凡夫の衆生に見せる所に、          ありがた 彼等に犠牲の精神の難有さがある訳である。仏教は一般民衆に向つて決 して肉食妻帯を断てと勧めるものでない。唯汝等が断ち難しとする物慾 も、此程度迄も圧迫すれば圧迫し得るといふ、精神の模範を垂示するも のだと予は信ずる。併し乍ら等しく模範を示すといふならば、去る絶対            たゞち 的のものよりも、俗衆の直に取つて日常の行往坐臥の上にも其儘増減無  ひきうつ く臨摸し得る者の方が、一層効果は適切で有らうと思ひ付いたのが、是 が親鸞の始めた浄土真宗の一門であらうと予は信ずる。されば是も亦一            ごぶんしやう 理あり、現に蓮如上人の御文章の中にも、飲酒を許しても重杯を禁じて ある。人によつては禁酒よりも節酒が難いといへば、見様によつては、 或は此方の摸範を示す事の方が、他の絶対的禁慾主義の法門よりも六か       いぎやう しい法門で、易行ではなく、難行かも知れぬ



幸田成友
『大塩平八郎』
その29


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その57/その59

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