Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その71

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十 陽明学と彼の所謂孔孟学 (1) 管理人註
   

 平八郎は「我学は大学、中庸、論語を治むるなり、大学、中庸、論語 は便ち是れ孔氏の書なり、孟子を治むるなり、孟子は便ち是れ孟氏の書              さくてい            なづ なり、而して六経、皆亦孔子刪定の書なり、故に強いて之を名けて、孔 孟学といふなり」といつて居るので、自らは敢て陽明学を標榜せず、又 孔孟学の三字を刻した印を使用して居つた。解する者あつて、是は或は 朱子学に対する遠慮からぢやないか、などといふけれども、予は之を採 らぬ。成る程異学の禁は有つたに相違ないが、官学以外には左程に厳重 に取締つたものと思はれず、何よりも証拠とすべきは、平八郎の旧儒門 空虚聚語の序文を佐藤一斎に請うた時の一斎の返事に、自分は官学に居            えうがく るから、上木ものなどに姚学(陽明学)めきたる事は遠慮致すから、拙 序は御断りに及ぶが、「貴君に於ては少しも避嫌無之候間、公然と被                     成候とも不苦事と存候、此任は貴君へ御譲申候事に御座候」とある事    いやしく で、身苟も林家の股肱たり、幕府の為に其学館を預つて居るものの筆で、 如此に記す程の事情でないか、蓋し平八郎の考では、王陽明は孔孟以                             せんめい 外に別に一新理を発見したものでなく、要するに孔孟の論旨の闡明に外 ならぬ。それ故に陽明学を奉ずる事は、即孔孟学を奉ずる事である。陽             こひねが 明の説を可也と見るも、我希ふ所は孔孟に在り、それ故陽明以外と雖も      げんし 苟も孔孟の玄旨に合致するものであるならば、我は固より之を採る。何 ぞ拘はるを要せんといふに在るであらう。


幸田成友
『大塩平八郎』
その186

刪定
(さんてい)
字句や文章など
の悪い所を削っ
てよいものにか
えること







幸田成友
『大塩平八郎』
その176











闡明
明瞭でなかった
道理や意義を明
らかにすること



玄旨
物事の奥深い
内容


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その70/その72

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