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さればこそ、彼は後年、朱子文集を伊勢の外宮の宮崎、林崎の両文庫
あきらか
に入れて、其跋に、朱子を欽慕するの意を明にし、其心を知り、其学を
おもね
体する一大賢儒の、我芙桑の東に出でん事を望んで居る。之を時に阿れ
りとなすか、予は平八郎の為、人の上より、独り之を否定せんと欲する
のみでなく、更に彼が、後に陸像山全集を同じく、其宮崎文庫に納めた
時の其跋文中に、彼が最も詳明に語れる所信に因り、之を否定せんと欲
する。即ち曰く「陸子は徳性を尊ぶを以て教と為せども、未だ甞て、徳
性を尊ばずんばあらざる也。然れども其生前、互に論弁して已まず、朱
は陸の人を教ふるを以て太簡と為し、陸は朱の人を教ふるを以て支離と
為す。而れども深く之れを考ふるに、朱子は、陸子の人を教ふるを以て
のみ
太簡を為す耳、未だ嘗て陸子を以て太簡と為さヾる也、陸子は、朱子の
人を教ふるを以て支離と為す耳、未だ嘗て朱子を以て支離と為さざる也、
かも しだう
只両家の子弟、客気勝心有る者、終に朱陸同異の説を醸し、以て斯道の
さまたげ つまびらか
梗を為す、嘆ず可きの甚しきに非ずや、今陸集を読めば、徳性を説く詳
を あきらか
なり、而して多きに居る。朱文を覈にすれば、問学を説く尽せり、而し
なかば
て半に居る。要するに両廃すべからざるなり。故に後素、両家の説を併
い
収するは、即ち依然徳制を尊んで問学の事を道ふ也、而して陽明王子、
こひねがは
良知を致すの教を以て、一以て之を貫く。是を以て学的と為す、庶幾く
そむ
は、孔孟の宗に叛かざる者歟」と。
陽明学の眼目が致良知に存するは、人の皆知る所であるが、平八郎は
其箚記中に、大学の致知の義を以て此致良知とすることは、陽明に始ま
つた事でなく、唯陽明に因つて震発雷轟したものであると断じて、程子、
らつ
呂東莱、胡敬斎等の諸説を引用した末に、朱子の明徳の説明を拉し来り、
も あきらか
「其良知良能は本と自ら之有り、只私欲に蔽はる故に暗くして明ならず、
所謂る明徳を明にすとは、之を明にする所以也」とあるが、「其之を明
にする所以とは、良知を致すに非ずして何ぞ。故に朱子も亦良知を致す
を謂ふ也」との最後の鉄案を下して居る、けれども、言ふ迄もなく、陽
ことば うち
明の力説して居る所は、朱子の語の中にも発見し得る、従つて朱子の意
は、陽明の意に背かずといふに止まり、それ故に、朱子の力説する所の
ものの何なるかを忘れ了つたものではないのである。
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芙桑
日本の異名
井上哲次郎
「大塩中斎」
その21
山田準
『洗心洞箚記』
その40
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