Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その72

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十 陽明学と彼の所謂孔孟学 (2) 管理人註
   

 さればこそ、彼は後年、朱子文集を伊勢の外宮の宮崎、林崎の両文庫                    あきらか に入れて、其跋に、朱子を欽慕するの意を明にし、其心を知り、其学を                               おもね 体する一大賢儒の、我芙桑の東に出でん事を望んで居る。之を時に阿れ りとなすか、予は平八郎の為、人の上より、独り之を否定せんと欲する のみでなく、更に彼が、後に陸像山全集を同じく、其宮崎文庫に納めた 時の其跋文中に、彼が最も詳明に語れる所信に因り、之を否定せんと欲 する。即ち曰く「陸子は徳性を尊ぶを以て教と為せども、未だ甞て、徳 性を尊ばずんばあらざる也。然れども其生前、互に論弁して已まず、朱 は陸の人を教ふるを以て太簡と為し、陸は朱の人を教ふるを以て支離と 為す。而れども深く之れを考ふるに、朱子は、陸子の人を教ふるを以て      のみ 太簡を為す耳、未だ嘗て陸子を以て太簡と為さヾる也、陸子は、朱子の 人を教ふるを以て支離と為す耳、未だ嘗て朱子を以て支離と為さざる也、                         かも       しだう 只両家の子弟、客気勝心有る者、終に朱陸同異の説を醸し、以て斯道の さまたげ                            つまびらか 梗を為す、嘆ず可きの甚しきに非ずや、今陸集を読めば、徳性を説く詳           を         あきらか なり、而して多きに居る。朱文を覈にすれば、問学を説く尽せり、而し なかば て半に居る。要するに両廃すべからざるなり。故に後素、両家の説を併                      収するは、即ち依然徳制を尊んで問学の事を道ふ也、而して陽明王子、                              こひねがは 良知を致すの教を以て、一以て之を貫く。是を以て学的と為す、庶幾く        そむ は、孔孟の宗に叛かざる者歟」と。  陽明学の眼目が致良知に存するは、人の皆知る所であるが、平八郎は 其箚記中に、大学の致知の義を以て此致良知とすることは、陽明に始ま つた事でなく、唯陽明に因つて震発雷轟したものであると断じて、程子、                             らつ 呂東莱、胡敬斎等の諸説を引用した末に、朱子の明徳の説明を拉し来り、                            あきらか 「其良知良能は本と自ら之有り、只私欲に蔽はる故に暗くして明ならず、 所謂る明徳を明にすとは、之を明にする所以也」とあるが、「其之を明 にする所以とは、良知を致すに非ずして何ぞ。故に朱子も亦良知を致す を謂ふ也」との最後の鉄案を下して居る、けれども、言ふ迄もなく、陽               ことば うち 明の力説して居る所は、朱子の語の中にも発見し得る、従つて朱子の意 は、陽明の意に背かずといふに止まり、それ故に、朱子の力説する所の ものの何なるかを忘れ了つたものではないのである。





芙桑
日本の異名






井上哲次郎
「大塩中斎」
その21







































山田準
『洗心洞箚記』
その40


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