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しよつちう いれしち
是で以て平八郎が初中終書店に借金の有つた様子や、大小一腰を入質し
て二両の金子を調達した事や、顔真卿の一軸が欲しくて堪らぬけれども、
懐都合が悪い為に、如何ばかり苦心して、理を尽し、辞を卑うして憐み
おびたゞ
を乞ふたかといふ事やが、明瞭に知られる。平八郎の家には、夥多しい
蔵書があつて、一個の小図書館を為した様にも想はれるが、それの裏面
かく やりくり
に此の如き遣繰算段の苦衷が有つたもので、従つて前に示した学則中の
罰則に、鞭朴の外に此購書の一項のあつた事等も自ら思ひ合はされる、
併しそれには塾生中の資産家の助力者もあつた如く、例へば天保三年に
入塾した兵庫西出町の家持柴屋長太夫の如きは、同八年正月迄に書籍代
として金二百両、銀拾二貫六百目余を貢いだといふから、合せて二百四
十一、二両になる。随分の高といふ可きだ、其外にも其家政を助けた者
の重なものには、ユウの仮親で、イクの実父たる上述の橋本忠兵衛と、
守口町の白井孝右衛門とがあるが、忠兵衛は五十石の田畑を耕した大百
姓であり、孝右衛門は百姓で、質屋渡世をもして居り、共に有福な身分
であつたといふ事だ。
リ ノ
平八郎は、飽迄勤勉努力の人の如く、山陽の詩中「唯有々万巻書。
ラ ム ルヲ アラ ニ ムニ ニ テ ム ヲ
自恨不暇仔細読。五更己起理案牘。」とある。五更と言へば暁の
四時であるが、詩であるから修辞の都合もあり、四時は正確を疑うと
しても、少くも五時頃には最早や起き出でて、書斎裡の人と為つて居
リテ ニ ル ヲ リテ ニ ス ヲ
た面目が窺はれる。同じ詩の初に「上衙治盗賊。帰家督生徒。
シテ ニ リ ヲ ホ ク シキヲ
獰卒候門取裁决。左塾猶聞喧唔。」とあるのは、彼の猶ほ出仕
どうそつ
中に於ける洗心洞の活描写であるが、今は既に門に裁決を待つの獰卒無
く、彼の心境は一段の澄明を加へて、万巻の書の乱抽に快心の青き眉根
を動かした事と信ずる。及門の子弟は、後年彼の騒動に加担した以外の
ものは、多く分明ならぬが、先づ其騒乱に血祭に上げられた彦根藩の宇
津木靖などが、其傑出したものに相違無い。
と
此退隠の年九月に、名古屋の宗家を訪ひ、遠祖の墓を拝して十一月二
日に帰宅、更に同三年六月に江州小川村に赴いて、中江藤樹の遺蹟を訪
ひ、帰路大溝より暴風悪浪を凌いで阪本に着し、それより叡山に登つて
帰宅、同四年七月十七日、富士山に登り、前年上梓せる洗心洞箚記を石
だれいろう
室に蔵して、八朶玲瓏の峯頂の雪と共に千秋に伝ふるの志を果し、それ
より吉田から海路を取つて、伊勢の山田に赴き、外宮の御師職足代弘訓
とま
宅に宿つて神宮を参拝し、林崎、宮崎両文庫に同じく箚記を納めて帰つ
た。彼の旅行は是が最後となつたのである。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その38
唔
書を読む声
及門
弟子、門人
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その44
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その53
阪本
坂本
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その59
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