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はう
更に又彼は「躯殻外の虚は、便ち是天也、天とは我心也、心万有を葆
がん
含す、是に於て悟る可し、故に血気ある者は、草木瓦石に至る迄、其死
み も
を視、其摧折を視、其毀壊を視れば、吾心を感傷せしむ、本と心中の物
たるを以て也、若し先づ慾有つて心を塞がば、心虚に非ず、虚に非ざれ
ば、頑然たる一小物にして、天体に非る也、便ち骨肉と既に分隔し了る。
ことはり
何ぞ況んや其他をや、之を名けて小人と曰ふも、亦理ならずや」といつ
て居るが、是は固より何等厳密なる認識論的根拠より出発して、万物は
皆、我心の所生なり、といふ様に論じたものでなく、単に我心は天と共
に虚なる者、万物は此虚の中に養はるるものであるから、即ち我心の内
の者だ、従つて我心は、天と其徳を同じうして万物の為に一喜一憂する
こんにち
ものだといふ位の思想の程度に止まり、今日の吾人の眼よりして見れば、
こと はつらつ
甚だ幼稚を免れず、特に彼は雨余池満ち、一魚溌溂として、誤つて身を
地に投じ、展転反側して居る間に、蟻が既に攻め寄せた、之を気の毒に
きよ/\
思つて、蟻を追ひ散して、其魚を池に投じたら、魚は圉々洋々として、
きぜん
身を水中に潜め去つた、それを見て喟然として嘆じ、「因つて遂に所謂
命数の命を心悟す」といつて居るので知れる如く、彼は一種の宿命を信
じて居たもので、論理的に究尽すれば、彼の心なるものは、未だ真の自
由を得ず、実在なる者から、束縛の縄を背後に着けられて居る者である
けれども、兎に角、形の上から見れば頗るフイヒテの道徳的唯心論とも、
しんげ
或は心外無別法と叫ぶ、仏教の唯心論とも似通へる程に、立説の広大な
しんし かつだい
る点があつて、吾人の心志を豁大ならしむる者がある。唯それ其質に於
ては、固より相去る万里であるのは是非もない。
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『洗心洞箚記』
その3
摧折
くじき折る
こと
雨余
雨あがり
圉々
(ぎょぎょ)
あたかも疲れ
ているかのよ
うにのんびり
泳ぐさま
喟然
ため息をつく
さま
『洗心洞箚記』
その117
豁
広々と開けて
いるさま
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